て、こんな処に働いている自分の姿が可憐《いじら》しく思えてならなかった。
 お島は湯をぬくために、冷い三和土《たたき》へおりて行った。目が涙に曇って、そこに溢《あふ》れ流れている噴井《ふきい》の水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも痒《かゆ》いところへ手の達《とど》くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背《せなか》を、昨夜も流してやったことが憶出《おもいだ》された。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾返《はねかえ》すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。
「鶴さんで懲々《こりごり》している!」
 お島はその時も、溺《おぼ》れてゆく自分の成行《なりゆき》に不安を感じた。
 お島は力ない手を、浴槽《よくそう》の縁《ふち》につかまったまま、流《なが》れ減《た》っていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。
 橋をわたって、裏の庫《くら》の方へゆく、主人の筒袖《つつそで》を着た物腰の細《ほっそ》りした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の蒼白《あおじろ》い、手足などの繊細《きゃしゃ》なその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を惹着《ひきつ》けてゆくようにさえ思われた。
「郵便が来ているよ」
 不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、懐《ふとこ》ろから一封の手紙を出した。
 それは王子の父親のところから来たのであった。
「へえ、何でしょう」
 お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を披《ひら》いて見た。

     五十五

 山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり碧《あお》い空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。
 冬中|閉《とざ》されてあった煤《すす》けた部屋の隅々《すみずみ》まで、東風《こち》が吹流れて、町に陽炎《かげろう》の立つような日が、幾日《いくか》となく続いた。淡雪が意《おも》いがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。樋《ひ》の破目《われめ》から漏れおちる垂滴《すいてき》の水沫《しぶき》に、光線が美しい虹を棚引《たなびか》せて、凧《たこ》の唸声《うなりごえ》などが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか飴《あめ》の太鼓が子供を呼んでいた。
「お暖《あった》かになりやした」
 浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。
 ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い頸元《えりもと》にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は荐《しきり》に都の空が恋しく想出された。
「御父さんから、また手紙が来ましたよ」
 人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。
 正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり市《まち》の方へも足を遠|退《の》いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ話《ばなし》をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。
 そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい碌《ろく》でもない噂《うわさ》が、昔《むか》し気質《かたぎ》の老人《としより》を怒らせている事は、その文言《もんごん》でも受取れた。
「どうしましょう」
 お島はその度《たんび》に、目に涙をためて溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。
「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」
 お島はそうも言って笑った。
 一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。市《まち》へお島を私《そっ》と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の生計向《くらしむき》では、それも出来ない相談であった。
 一里半ほど東に当っている谿川《たにがわ》で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も異《あや》しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。

     五十六

 嫁の生家《さと》や近所への聞えを憚《はばか》るところから、主婦《おかみ》の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。
 S――町の垠《はずれ》を流れている川を溯《さかのぼ》って、重なり合った幾箇《いくつ》かの山裾《やますそ》を辿《たど》って行くと、直《じき》にその温泉場の白壁や屋《や》の棟《むね》が目についた。勾配《こうばい》の急な町には疾《はや》い小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。
 お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、崖造《がけづくり》の新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、居周《いまわり》の人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう苧環《おだまき》が葉を繁《しげ》らせ、夏雪草が日に熔《と》けそうな淡紅色の花をつけていた。
 雪の深い冬の間、閉《たて》きってあったような、その新建《しんだち》の二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に拓《ひら》いた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の瓦屋根《かわらやね》のうえに、小禽《ことり》が怡《うれ》しげな声をたてて啼《な》いていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の梢《こずえ》ごしに奇《く》しく眺められた。
 繭時《まゆどき》にはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が偶《たま》に見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、函《はこ》をさげて飛込んで来るのに出逢った。
「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」
 お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに惹着《ひきつ》けられて、つい話に※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1−85−32に包摂、105−2]《とき》を移したりした。
 山越えに、××国の方へ渉《わた》ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ山《やま》の端《は》に消えうせぬ間《ま》を、軽々しい打扮《いでたち》をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。
「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」
 お島は可羨《うらやま》しそうにその後姿を見送りながら、主婦《かみさん》に言った。
 三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、老人気《としよりけ》のないこの家では、お島は比較的気が暢《のん》びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、希《まれ》には針仕事などを取出していることもあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に閉籠《とじこも》っていた。
 夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に青蛙《あおがえる》の啼声《なきごえ》がきこえて、銀《しろがね》のような大粒の雨が遽《にわか》に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の懶《だる》い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた頭脳《あたま》が急にせいせいして来て、お島は手摺《てすり》ぎわへ出て、美しい雨脚《あまあし》を眺めていた。圧《お》しつけられていたような心が、跳《はね》あがるように目ざめて来た。

     五十七

 浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。
 主人は来れば急度《きっと》湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お終《しまい》に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から突如《だしぬけ》に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。
 お島はその時、貰《もら》い子《ご》の小娘を手かけに負《おぶ》って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を摘《つ》んでやったりしていた。この町でも場末の汚い小家《こいえ》が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に沁通《しみとお》って仄《ほの》かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑[#底本では「縁」と誤植]が濃くなって行った。
「東京から御父《おとっ》さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」
 主人は或百姓家の庭の、藤棚《ふじだな》の蔭にある溝池《どぶいけ》の縁《ふち》にしゃがんで、子供に緋鯉《ひごい》を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て私語《ささや》いた。
「へえ……来ましたか」
 お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。
「いつ来ました?」
「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此方《こっち》へ来ている話をすると、それじゃ私《わし》が一人で行って連れて来るといって、急立《せきた》つもんだからな」
「ふむ、ふむ」
とお島は鼻頭《はながしら》の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。
「それでどうしました」
「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引立《ひった》てて連れて行こうという見脈《けんまく》だで……」
「ふむ」と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。
「御父さんにここで逢うのは厭だな」お島は手を堅く組んで首を傾《かし》げていた。「どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか」
「でも、ここに居ることを打明けてしまったからね」
「ふむ……拙《まず》かったね」
「とにかく些《ちょっ》と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ」
「ふむ――」と、お島はやっぱり凄《すご》い顔をして、考えこんでいた。「東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に言断《いいき》って来ましたからね。今逢うのは実に辛《つら》い!」
 お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。
「為方がない、思断《おもいき》って逢いましょう」暫くしてからお島は言出した。「逢ったらどうにかなるでしょう」
 二人は藤棚の蔭を離れて、畔道《あぜみち》へ出て来た。

     五十八

 父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく居住《いずま》って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で莨《たばこ》をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、漸《やっ》と勝手元近い下座敷の一つへ通った。
「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような辞《ことば》をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。
「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも可《よ》かったのに。でも折角来た序《ついで》ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら可《い》いでしょう」
「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。
「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、恁《こ》うやって己《おれ》が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」
「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の口吻《くちぶり》によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。
 それで父親は、今
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