吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に率《ひき》つけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を抱《いだ》きはじめたが、それも母親に遮《さえぎ》られて、修業らしい修業もしずにしまった。
寝るにも起きるにも、自分ばかりを凝視《みつ》めて暮しているような、年取った母親の苛辣《からつ》な目が、房吉には段々|厭《いと》わしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が惹《ひき》つけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った辞《ことば》が、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。
結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が気鬱《きぶせ》な母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。夜更《よなか》に目敏《めざと》い母親の跫音《あしおと》が、夫婦の寝室《ねま》の外の縁側に聞えたり、夜《よ》の未明《ひきあけ》に板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。
お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。
家にいても、大抵きちんとした身装《なり》をして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を活《い》けたり、書画を弄《いじ》ったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい辞《ことば》を浴せられた。
「あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ」母親はそうも言った。
衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、爾時《そのとき》五月《いつつき》の腹を抱えていた。日に日に気懈《けだる》そうにみえて来るおゆうの媚《なまめ》いた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。
四十三
お島の姉が、暑い日盛に帽子も冠せない子供を、手かけに負《おぶ》って、庭の方からまわって、おゆうを呼出しに来たとき、門のうちに張物をしていたお島と、自分の部屋の縁側で、髪を洗っていたおゆうを除いたほか、大抵の人は風通しの好さそうな場所を択んで、昼寝をしていた。房吉は時々出かけてゆく、近所の釣堀《つりぼり》へ遊びに行っていたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を啣《ふく》ませながら、茶《ちゃ》の室《ま》の方で、手枕をしながら、乱次《だらし》なく眠っていた。家のなかは、どこも彼処《かしこ》も長い日の暑熱に倦《う》み疲れたような懈《だる》さに浸っていた。
大輪の向日葵《ひまわり》の、萎《しお》れきって項《うな》だれた花畑尻《はなばじり》の垣根ぎわに、ひらひらする黒い蝶《ちょう》の影などが見えて、四下《あたり》は汚点《しみ》のあるような日光が、強く漲《みなぎ》っていた。
姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ卸《おろ》して、袂《たもと》で汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の端《はじ》に、紙片《かみきれ》を捲《まき》つけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。
「きっと鶴さんが来ているんだ」
お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。
「姉さんも随分な人だよ」
お島はいきなり姉の側へ寄っていった。
「どうしてさ」姉は這《は》っている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を赧《あから》めた。
「解ってますよ」
「可笑《おかし》な人だね。解っていたら可《い》いじゃないの」
「そんな事をしても可いんですか」
「いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ」
二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に内密《ないしょ》で、おゆうから少《すこし》ばかり融通をしてもらうために、私《そっ》と姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。
「ふむ」お島は首を傾《かし》げて、「じゃもう、あの店も駄目だね」
「そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行《い》くて言ってるわ」
「芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散々《さんざ》好きなことをして、店を仕舞うがいいや」
お島は自暴《やけ》に言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に荒《すさ》みきった神経質な顔などが、目について来た。
暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。
おゆうの部屋を出て行く姉の手には、小袖《こそで》を四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。
四十四
堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に洩《もら》したお島は、それを又お鈴から聞いて、宛然《さながら》姦通《かんつう》の手証《てしょう》でも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な苛責《かしゃく》からおゆうを庇護《かば》うことに骨がおれた。
宵の口に、お島にすかし宥《なだ》められて、一度眠りについた隠居は、衆《みんな》がこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した蚊帳《かや》のなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに倦《う》み果てたように、四下《あたり》を見回していた。
宵に母親に警《いまし》め責められた房吉は、隠居がじりじりして業《ごう》を煮《にや》せば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを近《ちかづ》けていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑稽《こっけい》にも莫迦々々《ばかばか》しくも見えた。
「誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ」
※[#「※」は「兀+王」、第3水準1−47−62、83−17]弱《ひよわ》かった幼《ちいさ》い頃の房吉の養育に、気苦労の多かったことなどを言立てる隠居の言《ことば》を、好い加減に房吉は聞流していた。
「不義した女を出すことが出来ないような腑《ふ》ぬけと、一生暮そうとは思わない。私《わし》の方から出ていくからそう思うがいい」
思っていることの半分も言えない房吉は、それでも二言三言|辞《ことば》を返した。
「そんな事があったか否《ない》か知らないけれど、私《あっし》の家内なら、阿母《おっか》さんは黙ってみていたらいいでしょう。一体誰がそんな事を言出したんです」
隠居の肩を揉《も》んでいたお島は、それを聴きながら顔から火が出るように思ったが、矢張《やっぱり》房吉を歯痒《はがゆ》く思った。
無成算な、その日その日の無駄な働きに、一夏を過して来たお島は、習慣でそうして来た隠居の機嫌取や、親子の間の争闘の取做《とりなし》にも疲れていた。寝苦しい晩などには、お島は自分自身の肉体の苦しみが、まだ戸もしめずに、いつまでもぼそぼそ話声のもれている若夫婦の寝室《ねま》の方へも見廻ってみる、隠居と一つに神経を働かせた。
「まあ、そんな事はいいでしょう」お島は外方《そっぽう》を向きながら鼻で笑った。
「お前がそんな二本棒だから、おゆうが好きな真似《まね》をするんだ。お前が承知しても、この私が承知できない。さあ今夜という今夜は、立派におゆうの処分をしてみせろ。それが出来ないような意気地なしなら、首でも縊《くく》って一思《ひとおも》いに死んでしまえ」
それよりも、部屋で泣伏しているおゆうの可憐《いじら》しい姿に、心の惹《ひ》かるる房吉は、やがてその傍《そば》へ寄って、優しい辞《ことば》をかけてやりたかった。妊娠《みもち》だと云うことが、一層男の愛憐《あいれん》を唆《そそ》った。
お島にささえられないほどの力を出して、隠居が剃刀《かみそり》を揮《ふり》まわして、二人のなかへ割って入ったとき、おゆうは寝衣《ねまき》のまま、跣足《はだし》で縁から外へ飛出していった。
四十五
二時過まで、植源の人達は騒いでいた。
お鈴と二人で漸《やっ》と宥《なだ》めて、房吉から引離して、蚊帳《かや》のなかへ納められた隠居が鎮《しずま》ってからも、お島はじっとしてもいられなかった。
「どうしましょうね。大丈夫でしょうか」お島は庭の方を捜してから、これも矢張《やっぱり》そこいらを捜しあぐねて、蚊帳の外に茫然《ぼんやり》坐っている房吉の傍へ帰って来て言った。
房吉は蒼白《あおざ》めた顔をして、涙含《なみだぐ》んでいた。
「大丈夫とは思うけれど、偶然《ひょっ》とするとおゆうは帰って来ないかも知れないね。不断から善く死ぬ死ぬと言っていたから」
「そうですか」お島は仰山らしく顫《ふる》え声で言った。
「それじゃ私少し捜して来ましょう」
お島が近所の知った家を二三軒|訊《き》いて歩いたり、姉の家へ行ってみたり、途中で鶴さんや大秀へ電話をかけたりしてから、漸《ようよ》う帰って来たのは、もう大分夜が更《ふ》けてからであった。
「安心していらっしゃい」お島は房吉の部屋へ入ると、せいせい息をはずませながら言った。「おゆうさんは大丈夫大秀さんにいるんですよ」
お島が、大秀へ電話をかけたとき、出て来て応答《うけこたえ》をしたのは、おゆうには継母にあたる大秀の若い内儀《かみ》さんであった。
おゆうが俥《くるま》で飛込んでいった時、生家《さと》ではもう臥床《ねどこ》に入っていたが、おゆうはいきなり昔し堅気の頑固《がんこ》な父親に、頭から脅《おどか》しつけられて、一層|突《つき》つめた気分で家を出た。鶴さんに着物を融通したり何かしたと云うことが、植源へ片着かない前からの浮気っぽいおゆうを知っている父親には、赦《ゆる》すことのできぬ悪事としか思えなかった。
おゆうが帰って来たとき、お島は自分の寝床へ帰って、表《おもて》の様子に気を配りながら、まんじりともせず疲れた体を横《よこた》えていた。
帰って来たおゆうが、一つは姑《しゅうとめ》や父親への面当《つらあて》に、一つは房吉に拗《す》ねるために、いきなり剃刀《かみそり》で髪を切って、庭の井戸へ身を投げようとしたのは、その晩の夜中過であった。おゆうは、うとうと床《とこ》のなかに坐っている房吉には声もかけず、いきなり鏡台の前に立って、隠居の手から取離されたまま、そこに置かれた剃刀を見つけると、いきなり振釈《ふりほど》いた髪を、一握ほど根元から切ってしまった。
「可悔《くやし》い可悔い」跣足で飛出して来たお島に遮《ささ》えられながら、おゆうは暴《あば》れ悶※[#「※」は「足+宛」、第3水準1−92−36、86−14]《もが》いて叫んだ。
漸《やっ》とのことで、房吉と一緒におゆうを座敷へ連込んで来たお島の目には、髪を振乱したまま、そこに泣沈んでいるおゆうが、可憐《いじら》しくも妬《ねた》ましくも思えた。
「みんな鶴さんへの心中立だ」お島は心に呟《つぶや》きながら、低声《こごえ》でおゆうを宥《なだ》めさすっている房吉と、それを耳にもかけず泣沈んでいるおゆうの美しい姿とを見比べた。
四十六
情婦《おんな》の流れて行っている、或山国の町の一つで、暫《しばら》く漂浪の生活を続けている兄の壮太郎《そうたろう》が、其処《そこ》で商売に着手していた品物の仕入かたがた、仕事の手助《てだすけ》にお島をつれに来たのはその夏の末であった。
「阿母さんは、一体いつまで私を彼処《あすこ》で働かしておくつもりだろう」
植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこの家《うち》のなかの紛紜《いざこざ》に飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親に零《こぼ》した。
長いあいだ家へ寄つきもしない壮太郎の代りに、家に居坐らせるため、植源を出て来て、父の手助に働かせられていたお島は、兄に説《とき》つけられて、その時ふいと旅に出る気になったのであった。
「誰が来たっ
前へ
次へ
全29ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング