うち》のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が籠《こも》っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭脳《あたま》がのうのうして、寿命がちぢまるような鬱陶《うっとう》しさを感じた。お島は糸屑《いとくず》を払いおとして、裏の方にある紙漉場《かみすきば》の方へ急いで出ていった。
 薮畳《やぶだたみ》を控えた広い平地にある紙漉場の葭簀《よしず》に、温かい日がさして、楮《かぞ》を浸すために盈々《なみなみ》と湛《たた》えられた水が生暖《なまあたた》かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩|罷《や》めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった空地《あきち》は庭に作られて、洒落《しゃれ》た枝折門《しおりもん》などが営《しつら》われ、石や庭木が多く植え込まれた。住居《すまい》の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も外《ほか》に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。
「貧乏くさい商売だね」お島は自分の稚《ちいさ》い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、跪坐《しゃが》んで莨《たばこ》を喫《す》っていた。
 顎髯《あごひげ》の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。
「お前さんの紙漉も久しいもんだね」
「駄目だよ。旦那《だんな》が気がないから」作《さく》と云うその男は俛《うつむ》いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る気遣《きづかい》もないからね」
「真実《ほんとう》だ」お島は鼻頭《はなのさき》で笑った。

     四

 お島は幼《ちいさ》い時分この作という男に、よく学校の送迎《おくりむかい》などをして貰ったものだが、養父の甥《おい》に当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終|苦使《こきつか》われて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは豕《ぶた》か何ぞのように忌嫌《いみきら》われた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは直《じき》に気荒く罵った。
「おいおい、この忙《せわ》しいのに寝ている奴があるかよ。旧《もと》を考えてみろ」
 おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を覗込《のぞきこ》みながら毎時《いつ》ものお定例《きまり》を言って呶鳴《どな》った。甲走《かんばし》ったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたるやくざ[#「やくざ」に傍点]者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との間《なか》にできた子供であった。彼の父親は賭博《とばく》や女に身上《しんしょう》を入揚《いれあ》げて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ稼《かせ》ぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように零落《おちぶ》れて、間もなくまた二人でこの町へ復《かえ》って来た。その時身重であったその女が、作を産《うみ》おとしてから程なく、子供を弟の家に置去《おきざり》に、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う報知《しらせ》が、木更津《きさらず》の方から来たのは、それから二三年も経《た》ってからであった。
 お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも得乗《えの》らず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた黝《くろ》い顔をして、疲れきった足を引きずりながら這込《はいこ》んで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。
「あの衆《しゅ》と一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい」
 作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、終《しまい》にはえへへと笑って聞いていた。
 作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育|盛《さかり》を劇《はげ》しい労働に苦使《こきつか》われて営養が不十分であったので、皮膚の色沢《いろつや》が悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に吩咐《いいつ》かって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、負《おぶ》ったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえる
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