取られてからも、気強い母親に疎《うと》まれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に焼火箸《やけひばし》を押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。
「この業《ごう》つく張《ばり》め」彼女はじりじりして、そう言って罵《ののし》った。
 昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の出遊《しゅつゆう》のおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として遺《のこ》っている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の瑕《きず》としてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、賤《いや》しいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては能《よ》く働いたがその身状《みじょう》を誰も好く言うものはなかった。
 お島が今の養家へ貰われて来たのは、渡場《わたしば》でその時行逢った父親の知合の男の口入《くちいれ》であった。紙漉場《かみすきば》などをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、遽《にわか》に身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は養親《やしないおや》の口から、時々その折の不思議を洩《も》れ聞いた。それは全然《まるで》作物語《つくりものがたり》にでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、放浪《さすらい》の旅に疲れた一人の六部《ろくぶ》が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を言告《いいつ》げて立去った。その旅客の迹《あと》に、貴い多くの小判が、外に積んだ楮《かぞ》のなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の幸《さち》を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、終《つい》にそれらしい人の姿にも出逢わなかった。左《と》に右《かく》、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。
「その六部が何者であったかな」養父は稀《まれ》に門辺《かどべ》へ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に語聞《かたりきか》せたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。
 養家へ来てからのお島は、生《うみ》の親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。

     三

 然《しか》し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に沁込《しみこ》むようになって来た。養家の旧《もと》を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし聞齧《ききかじ》ったところによると、六部はその晩急病のために其処《そこ》で落命したのであった。そして死んだ彼の懐《ふとこ》ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の有《もの》にして了《しま》ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、矢張《やっぱり》好い気持がしなかった。
「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」
 お島がその事を、私《そっ》と養母に糺《ただ》したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い汚点《しみ》が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を劬《いたわ》りかばうようにと力《つと》めたが、どうかすると親たちから疎《うと》まれ憚《はばか》られているような気がさしてならなかった。
 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は夜《よる》厠《かわや》への往来《ゆきき》に必ず通らなければならなかった。そこは畳の凸凹《でこぼこ》した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは大抵《たいてい》勝手に近い六畳の納戸《なんど》に寝《ねか》されていた。お島はその八畳を通る度《たんび》に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼白《あおじろ》い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄然《ぞっ》とするような事があった。夜はいつでも宵の口から臥床《ふしど》に入ることにしている父親の寝言などが、ふと寝覚《ねざめ》の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに魘《うな》されている苦悶《くもん》の声ではないかと疑われた。
 陽気のぽかぽかする春先などでも家《
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