あらくれ
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お島《しま》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)或|可恐しい《おそろ》しい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やくざ[#「やくざ」に傍点]者
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     一

 お島《しま》が養親《やしないおや》の口から、近いうちに自分に入婿《いりむこ》の来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭脳《あたま》には、まだ何等の分明《はっきり》した考えも起って来なかった。
 十八になったお島は、その頃その界隈《かいわい》で男嫌《おとこぎら》いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽古《けいこ》でもしていれば、立派に年頃の綺麗《きれい》な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手頭《てさき》などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚《ちいさ》いおりから善く外へ出て田畑の土を弄《いじ》ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧《むし》ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家中《うちじゅう》の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭《やと》い男などから、彼女は時々|揶揄《からか》われたり、猥《みだ》らな真似《まね》をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥《はしゃ》ぐことが好《すき》であったが、誰もまだ彼女の頬《ほお》や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小《こ》ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破《すっぱ》ぬいて辱《はじ》をかかせるかして、自ら悦《よろこ》ばなければ止まなかった。
 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰《もら》われてきたのは、七つの年であった。お島は昔気質《むかしかたぎ》の律義《りちぎ》な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴《あら》い怒と惨酷《ざんこく》な折檻《せっかん》から脱《のが》れるために、野原をそっち此方《こっち》彷徨《うろつ》いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊《つる》されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬《いた》わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨《たばこ》をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥《む》いてくれる柿や塩煎餅《しおせんべい》などを食べて、臆病《おくびょう》らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた夕陽《ゆうひ》がかげって、野面《のづら》からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い懸稲《かけいね》、黝《くろ》い畑などが、一様に夕濛靄《ゆうもや》に裹《つつ》まれて、一日|苦使《こきつか》われて疲れた体《からだ》を慵《ものう》げに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の遣場《やりば》に困っている自分の父親も可哀そうであった。
 お島は爾時《そのとき》、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久《おく》の渡《わたし》あたりでもあったろうか、のんどりした暗碧《あんぺき》なその水の面《おも》にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕《こ》いでゆく淋《さび》しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸《ひた》って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺《ゆら》めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺《なが》めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖《いふ》と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋《すが》っているのであった。

     二

 その時お島の父親は、どういう心算《つもり》で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素《もと》より解らない。或《あるい》は渡しを向うへ渡って、そこで知合の家《うち》を尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或|可恐《おそろ》しい惨忍《ざんにん》な思着《おもいつき》が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯《おび》えた。父親の顔には悔恨と懊悩《おうのう》の色が現われていた。
 赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引
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