と、なぜ己《おれ》んとこへ来て挨拶をしねえんだ」養母にささえられながら、疳癪声《かんしゃくごえ》を立てている養父の声が、お島の方へ手に取るように聞えた。
「お前がまたわるいよ」おとらは、寝衣《ねまき》のまま呼つけられて枕頭《まくらもと》に坐っているお島を窘《たしな》めた。
「それに自分の着物を畳みもせずに、脱《ぬぎ》っぱなしで寝て了うなんて、それだから御父さんも、この身上《しんしょう》は譲られないと言うんじゃないか」
剛情なお島は、到頭|麺棒《めんぼう》で撲《なぐ》られたり足蹴《あしげ》にされたりするまでに、養父の怒を募らせてしまった。
二十八
植源《うえげん》という父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或|鑵詰屋《かんづめや》へ縁着《えんづ》かせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や頭髪《あたま》のものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。
植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年|弱《たらず》もいて、職人と一緒に起臥《おきふし》して来たりした主人は、お島より十近《とおぢか》くも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。
鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある棟梁《とうりょう》の家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、噂《うわさ》していた。植源の嫁は、生家《さと》の近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直らぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の註文《ちゅうもん》を持ちまわっていた。
先《せん》の上《かみ》さんが、肺病で亡《なくな》ったことを、お島はいよいよ片着くという間際《まぎわ》まで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか厭《いや》なような気もした。
「先の上さんのような、しなしなした女は懲々《こりごり》だ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ」姉は肥りきったお島の顔を眺めながら揶揄《からか》ったが、男のいい鶴さんを旦那《だんな》に持つことになったお島の果報に嫉妬《しっと》を持っていることが、お島に感づかれた。死んだ上《かみ》さんの衣裳《いしょう》が、そっくりそのまま二階の箪笥に二棹《ふたさお》もあると云うことも、姉には可羨《うらやま》しかった。
結納の取換《とりかわ》せがすんで、目録が座敷の床の間に恭《うやうや》しく飾られるまでは、お島は天性《もちまえ》の反抗心から、傍《はた》で強《し》いつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と喜悦《よろこび》に和《やわら》ぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する矜《ほこり》を傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う噂《うわさ》が、年のうちに此方《こっち》へも伝っていた。お島はそのことを、糧秣《りょうまつ》問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。
「あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ」お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。
二十九
結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜|極《ごく》親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な祝言《しゅうげん》をすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や長襦袢《ながじゅばん》が、屏風《びょうぶ》の蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。蓬莱《ほうらい》を飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。
客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に為《し》て聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、前《せん》の上《かみ》さんの病気の療治に骨の折れたことや、金
前へ
次へ
全72ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング