のかかった事をも零《こぼ》した。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の手隙《てすき》には、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう[#「そういう」は底本では「さういう」と旧仮名遣い、56−9]時には、お島は店を預かって、しっかり遣《や》ってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを措《お》いているらしかった。
 部屋などの取片着《とりかたづけ》をしているうちに、翌日一日は直《じき》に経ってしまった。お島は時々|細《こまか》い格子《こうし》のはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や莫大小屋《メリヤスや》の店を見たりしていたが、檻《おり》のような窮屈な二階に竦《すく》んでばかりもいられなかった。それで階下《した》へおりてみると、下は立込んだ廂《ひさし》の差交《さしかわ》したあいだから、やっと微《かす》かな日影が茶《ちゃ》の室《ま》の方へ洩《も》れているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には厚司《あつし》を着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。
 二日三日と日がたって行った。お島は頭髪《あたま》を丸髷《まるまげ》に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の余《よ》も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている良人《おっと》の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に育《はぐく》み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ牽《ひき》つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。

     三十

 麗《うららか》な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日|潰《つぶ》してお島と一緒に、媒介《なこうど》の植源などへ礼まわりをして、それからお島の生家《さと》の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、前《せん》の上《かみ》さんの義理の弟――先代の妾《めかけ》とも婢《はした》とも知れないような或女に出来た子供――のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に喰《く》わぬといって、後廻しにすることにした。
 お島はこの頃|漸《ようや》く落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい較《やや》強味《きつみ》のある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の手絡《てがら》をかけて、こってりと濃い白粉《おしろい》にいくらか荒性《あれしょう》の皮膚を塗《ぬり》つぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。
 鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の柄《がら》も、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。
「かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない」
 鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら鍵《かぎ》を取出して、そこへ投出《ほうりだ》した。
「でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか」
「それもそうだな」と、鶴さんは淋《さび》しそうな顔をして笑っていた。
「それにおかねさんの思いに取着《とっつ》かれでもしちゃ大変だ」お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを引《ひっ》くら返していた。
「でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか」
「何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね」鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。
「あの慾張婆《よくばりばばあ》め、これも廃《すた》れた柄《がら》だ、あれも老人《としより》じみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ」鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。
 お島は錠をはずして、抽斗《ひきだし》を二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて覗《のぞ》いていたが、お島の目には、まだそれがじみ[#「じみ」に傍点]すぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。
「そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない」お島は蓮葉《はすっぱ》に言って笑った。
「戯談《じょうだん》じ
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