ったが、大分たってから明朝《あした》の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢張《やっぱり》いつものとおり、にやにやしていた。
「汚《きたな》い、其地《そっち》へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。
十八
お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。
残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分|弱《たらず》も剰《あま》して、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた箪笥《たんす》から取出されたり、足りない物が買足されたりした。
お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、総《すべ》てのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や食物《たべもの》の世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を辿《たど》ってみると、養父や養母に媚《こ》びるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、粗雑《がさつ》ではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな矜《ほこり》を感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を悦《よろこ》んでいた。
「お島さんお島さん」と云って、周囲の人が、挙《こぞ》って自分を崇《あが》めているようにも見えた。馬糧|用達《ようたし》の西田の爺《じじ》いから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。
「くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ潰《つぶ》そうと思えば、何でもありゃしない」
お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって大束《おおたば》を極込《きめこ》んだ。
病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。それでなくとも、十年来住みなれて来ながら、一生ここで暮せようとは思えなくなった家に、めっきり親しみがなくなって来たお島は、よく懇意の得意先へあがっていって、半日も話込んでいた。主人《あるじ》に代って、店頭《みせさき》に坐ってお客にお世辞を振撒《ふりま》いたり、気の合った内儀《かみ》さんの背後《うしろ》へまわって髪を取《とり》あげてやったりした。
「私二三年東京で働いてみようかしら」お島は何か働き効《がい》のある仕事に働いてみたい望みが湧いていた。
「笑談《じょうだん》でしょう」内儀さんは笑っていた。
「いいえ真実《まったく》。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです」
「でも貴方にぬけられちゃ、お家《うち》で困るでしょう」
「どうですかね。安心して私に委せておけないような人達ですからね。何を仕出来《しでか》すかと思って、可怕《おっかな》いでしょう」お島は可笑《おか》しそうに笑った。
目こする間《ま》に、さっさと髷《まげ》に取揚げられた内儀さんの頭髪《あたま》は、地《じ》が所々|引釣《ひきつ》るようで、痛くて為方《しかた》がなかった。
十九
お島は或時は、それとなく自分に適当した職業を捜そうと思って、人にも聞いてみたり、自分にも市中を彷徨《ぶらつ》いてみたりしたが、自分の智識が許しそうな仕事で、一生懸命になり得るような職業はどこにも見当らなかった。坐って事務を取るようなところは、碌々《ろくろく》小学校すら卒業していない彼女の学力が不足であった。
お島は時とすると、口入屋の暖簾《のれん》をくぐろうかと考えて、その前を往ったり来たりしたが、そこに田舎の駈出《かけだ》しらしい女の無智な表情をした顔だの、みすぼらしい蝙蝠《こうもり》や包みやレーザの畳のついた下駄などが目につくと、もう厭になって、その仲間に成下《なりさが》ってまでゆこうと云う勇気は出なかった。
お島は日がくれても家へ帰ろうともしず、上野の山などに独《ひとり》でぼんやり時間を消すようなことが多かった。山の下の多くの飲食店や、商家《あきないや》には灯《ひ》が青黄色い柳の色と一つに流れて、そこを動いている電車や群衆の影が、夢のように動いていた。お島はそんな時、恩人の子息《むすこ》で、今アメリカの方へ行っているという男のこ
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