は曇《うる》んだ目色《めつき》をして、黙っていた。
「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」
「私は厭です」お島は顔の筋肉を戦《わなな》かせながら言った。
「他《ほか》の事なら、何でも為《し》て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」
 父親は黙って煙管を啣《くわ》えたまま俛《うつむ》いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を瞶《みつ》めていた。
「島、お前よく考えてごらんよ。衆《みな》さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。真実《ほんと》に惘《あき》れたもんだね」
「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは前屈《まえこご》みになって、華車《きゃしゃ》な銀煙管に煙草をつめながら一服|喫《ふか》すと、「だからね、それはそれとして、左《と》に右《かく》私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も煩《うるさ》いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と宥《なだ》めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。
 お島を頷《うなず》かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が分明《はっきり》わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。
「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。
 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、気爽《きさく》におとらと話を交えた。
「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」
 おとらは途々《みちみち》お島に話しかけたが、左《と》に右《かく》作の事はこれきり一切口にしないという約束が取極《とりき》められた。

     十七

 おとらは途《みち》で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体《てい》に吹聴していたが、お島にもその心算《つもり》でいるようにと言含めた。
「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為《す》ることは鈍間《のろま》でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄棒《かなぼう》というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。
 お島は何だか変だと思ったが、欺《だま》したり何かしたら承知しないと、独《ひとり》で決心していた。
 家へ帰ると、気をきかして何処《どこ》かへ用達《ようた》しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙漉場《かみすきば》の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお叩頭《じぎ》をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取做方《とりなしかた》をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦《くら》むようであった。お島はこの家が遽《にわか》に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破滅《はめ》に陥《お》ちて来たようにも考えられた。
「あの時王子の御父《おとっ》さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川《すみだがわ》へ流してしまったと云って御母《おっか》さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈《はず》だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。
 お島はつんと顔を外向《そむ》けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。
「旧《もと》を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」
 お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。
「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理《り》があるとは言うまいよ」
 お島は俛《うつむ》いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。
 おとらが汐《しお》を見て、用事を吩咐《いいつ》けて、そこを起《たた》してくれたので、お島は漸《やっ》と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納戸《なんど》で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃《ごみ》を掃出しているうちに、自分がひどく脅《おどか》されていたような気がして来た。
 夕方裏の畑へ出て、明朝《あした》のお汁《つゆ》の実にする菜葉《なっぱ》をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍《おこ》ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなか
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