生をおやめになって、私のラボラトリーで手伝って下さることになってのですね、そして冷たい科学の研究をしながら、私たちは……」
「愛しあっていたのですわ。凡てのものを、やきつくすような熱烈な愛で」
「私たちは、まるで若い学生同志のように愛しあいましたね。世間では、私たちが、この研究室の中で、しじゅう顕微鏡や試験管ばかりいじくっているように思っているが、そして私の家内もそう[#「そう」は底本では「さう」と誤植]思っているのですが、その実、私たちは一日じゅうこの部屋の中で、手を握ったり、抱擁したりして、愛の戯れをしつづけていたこともありましたね。研究の方は自然怠りがちになって……」
 二人の手はひとりでに動いた。はげしい抱擁がかわされた。
 房子はうるんだ眼をあけて彫刻のように落ちついた博士をじっと見ながら少しふるえを帯びた声で言った。
「でもその間に、先生は、妾《わたし》さえもちっとも知らない間に、あんなにすばらしい御研究をしていらっしゃるんですもの。人間の人工生殖だなんて、妾《わたし》ちょっとでよいから見せていただきたいわ隣のお部屋が。もう一月たちますわね。先生があの部屋をしめきって錠をおろされてから。でも妾《わたし》にだけはちょっと位見せて下さってもいいでしょう。妾《わたし》、ぜひ見たいわ、どんな様子で育っているのか……」
「それだけはいけませんね。それに実験は絶対暗黒の中で行われているんですから、見ることはできませんよ。そして絶対安静なコンデションが必要なんです。まあ、実験が成功するまで待ってて下さい。今度の実験は私の生命と名誉とをかけての実験ですから、万一しくじったら私は何もかも破滅なんだから」
 永い四月の日も暮れちかくなった頃二人は実験室を出て、桜の花の散りしいている庭づたいに博士の自邸の裏口から中へ消えていった。


      3

「お父さん、犬はなんて泣くか知ってるかい?」
「犬はわんわんって泣くさ」
「そりゃ日本の犬さ、西洋の犬はどういって泣くか知ってる?」
「西洋の犬だって同じさ」
「うそだよ。お父さんは知らないんだなあ。西洋の犬はね、バウワウってなくんだよ。リーダーにそう書いてあるよ。ほら、ザ・ドッグ・バークス・バウワウ」
「お父さま、百|日紅《にちこう》と書いてどうしてサルスベリと訓《よ》むんですか?」
「むずかしい質問だね、お父さんは知りませ
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