貴方を愛しつづけているじゃありませんか」
彼は彼女の薄化粧をした素首にキッスした。そしてまた語りつづけた。
「だが私には妻もあり四人の子供もあることを御存知じゃありませんか、そして貴女だって、婚約の夫がおありになるじゃありませんか」
房子は顔をあげた。博士の膝には、涙で大きく斑点ができていた。彼女の眼のまわりは涙ですっかり濡れていた。
「わかりました。妾《わたし》が無理を申し上げました。でも、妾《わたし》どうしても先生のおそばを離れられません。去年の夏でございましたね。八月の十四日でございましたね。午後の四時頃でしたわ。まだ日は高くて暑いさかりでしたもの。先生は海水着をきて砂の中に半分埋まっていらっしゃいましたわ。まるで中学生か何かのように、妾《わたし》なんてお転婆だったでしょう。大きな声で歌を歌いながら先生のすぐそばを通ったのでしたわね。妾《わたし》わざとそうしたのですわ。妾《わたし》の方では先生をよく知っていたのですもの。ブッセの詩でございましたわね、あの時|妾《わたし》がうたっていたのは。
山のあなたに空遠く
さいわい住むと人のいう
ああわれひとりとめゆきて
涙さしぐみ帰りきぬ
山のあなたになお遠く
さいわい住むと人の言う
この歌を歌いましたわ。すると先生もあとからついて歌われましたわね。わたし耳の附根まで赤くなりましたわ。でもわたし歌はやめなかったわ。そしてほんとうにうれしかったわ。胸がぞくぞくする程でしたわ」
村木博士の眼も少しうるんで来た。追懐ということはどんなに苦しい時の追懐でも人の心をセンチメンタルにする。まして、このような、ロマンチックな追懐は涙を催さずにすむものではない。博士は彼女の言葉をついで言った。
「それから海の中でずいぶん会いましたね。下半身を水の中へつけながら、そして時々やって来る波のうねりをよけながら、いろいろなことを話しましたね」
「そしてとうとう妾《わたし》も先生から一|間《けん》もはなれないところで、並んで砂に埋まりましたわ。そしていろんなお話をうかがいましたわ。先生が独逸でごらんになった表現派の芝居のお話など……そして先生が遊びにいらっしゃいとおっしゃったので、鎌倉のお宅へ伺ったのでしたわ。それから……」
「妙なものですね人間の縁というものは、それであなたはその夏きり××大学の聴講
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