めのうちは、大宅は、毎週土曜日に必ず、大正軒の一つのテーブル――それも大抵《たいてい》他の客が既に占領していない限り、入口から三番目の右側のテーブルときまっていた――に陣どって、好きでもないウイスキーをちびりちびりなめながら、時々光子の姿を見ることで満足していた。二人がはじめて口をきいたのは、それから約三カ月もたってからだった。それはほんのちょっとした挨拶に過ぎなかったのだが、大宅は有頂天になって、その日の日記のしまいに、今思い出すと冷汗《ひやあせ》の出るような甘ったるい詩を書いたことを今でもおぼえていた。
 それから、しばらくたつと冗戯《じょうだん》口の一つもきけるようになり、とうとう公休日に一度二人で日帰りで江《え》の島《しま》まで遊びに行ったこともあった。とはいえその時だって、彼は、汽車に同席したというだけで手先や膝がふれあうのさえ、不必要に用心して彼の方でさけていた位だった。
 外部にあらわれた二人の関係はこんなに淡いものであったが、心の中はそうではなかった。三四郎には光子のあらゆる部分、あらゆる動作が美しく、高貴に、なみなみならぬもののようにさえ見えた。ある時の如《ごと》きは
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