、大正軒の前まで来て、急に彼女にあうのがきまりわるくなって引き返したことすらもあった。
 三四郎が大学を卒業して××省書記に採用されてからまもないある土曜日の晩であった。恰度《ちょうど》四月のことで大正軒の広間には造花の桜が一ぱい咲き乱れており、シャンデリヤは部屋一ぱいに豊満な光を投げていた。白いエプロンの襟《えり》に真鍮《しんちゅう》の番号札をつけた光子は、三四郎のそばに立って一寸《ちょっと》あたりに気をくばりながら低声《こごえ》で言った。
「妾《わたし》近いうちにここをやめようと思うの」
 芳醇なカクテールにほんのり微酔《ほろよい》していた三四郎は、
「そりゃ困るね。君が居なくなっちゃ僕の生活はアメリカ無しのコロンブス同然だよ」と彼はドストエフスキーの文句をひいて不良少年じみた冗戯《じょうだん》口調で言った。
「でもね」と光子は存外|真面目《まじめ》で、矢張り四辺《あたり》に気をくばりながら低声《こごえ》で続けた。「カフェの女給なんてまったく奴隷みたいなものよ。主人からもお客からもふみつけにされてね。それでいて朋輩《ほうばい》同志だってみんなひがみあっているのよ。口先では体裁のいい
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