見えるような気がした。ほんとうにそれを見たようにさえ思われ出して来た。おまけに、何よりも困ったことには手紙の用箋に役所の用箋をつかったことだ。
いま一つの手落ちは、何者かが玄関の戸をあけて靴を盗んで行ったのに気のつかなかったことである。玄関と居間との間の襖はしまっていたから、中の様子が玄関から見えるわけはないけれども、彼は靴を盗まれても知らずにいた位だから、どんな隙間からのぞかれていたか知れたものでない。靴を盗んだ奴《やつ》は、靴をかくしておけば逃げ出す心配はないと単純に考えて、その間に交番へかけつけて一部一什《いちぶしじゅう》を巡査に訴えたのかも知れない。そうだとすると彼は電車道までの帰りがけに、急をきいて現場へかけつける巡査とすれちがったのかも知れないことになる――考えただけでも彼は背筋が寒くなった。
――それにしてもあの女はかわいそうなことをしたものだ――彼の頭は急に別なことを考えはじめた。上野広小路《うえのひろこうじ》で神明町《しんめいちょう》行きに乗りかえてから、俄《にわか》に混雑して来た電車の中で、彼は過去二年間にまたがる、被害者との関係を次から次へと回想しはじめた。
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