妙な恰好にも誰一人注意する者はないらしかった。凡《すべ》てが、普通であり、何等《なんら》異常な点はなかった。つい数十歩はなれた路地に酸鼻《さんび》を極めた悲劇が起っていることを思わせるような何物もなかった。大都会という巨大な存在には、あれ位な出来事は皮膚の上へ一片の埃《ほこり》が落ちた位の刺戟《しげき》しか与えないのだろう。ことによると、東京市内に、これ位な事件は、現在二十も或いはそれ以上も起っていて、しかも誰一人それに気がついていないのかも知れぬ。
 しかし、彼自身は大都会そのもののように無感覚ではあり得ない。彼は昼夜《ちゅうや》銀行の前まで来ると、筋向いの靴屋のショーウインドウの前に立ちどまり、その中から自分が前に穿いていた靴によく似た一足を物色して、中へはいってそれを買って穿いた。靴屋の小僧は、彼の風体などには全く無関心で、まるで洋服を着て女下駄をはいているのは極《ご》く普通の服装でもあるかのように、少しも平常《ふだん》と変ったところはなく、愛嬌よく、しかも非常に事務的に新聞紙で下駄を包んで彼に渡した。彼は、江戸川橋《えどがわばし》の上からそっと下の川へその包みを投げすてて、急い
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