ばへ自分の顔を寄せて、そっと頬と頬とをすりあわせていたが、やがて、力一ぱい女の顔を自分の頬におしつけた。死人を相手にしてのこれ等《ら》の凡《すべ》ての動作は、全くの沈黙のうちに行われたのであった。
 やがて男は、受持の役割を無事にすまして舞台裏へ退場する俳優のように、落ちつき払って玄関の間《ま》へ出て、帽子をかぶり、玄関に腰をかけて靴を穿《は》こうとした。彼の視神経は忽《たちま》ち緊張し、彼の視線は急速度で旋廻《せんかい》する探照灯のように前後左右へ旋廻した。
 靴がないのだ。たしかに靴脱台《くつぬぎだい》の上へ脱いでおいた筈の靴が、影も形もなくなっているのだ。念のために彼は下駄箱をあけて見たが、無論そんなところへ靴がひとりでに移転している筈はない。土間には、平常履《ふだんば》きの女下駄が一足脱ぎすててあるばかりだった。やっと回復した彼の落ちつきは、この思いがけない出来事のために根柢《こんてい》から覆《くつが》えされてしまった。しかも、気がついて見ると、たしかにしめておいた筈の玄関の戸が開けっぱなしになっているのである。
 ――きっと誰かこの戸をあけて、どっかの隙間から自分の行為を見て
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