、被害者の蒼《あお》ざめた額をさわったり、ほつれ髪をかき上げたりしていたが、やがて、死人の顔とすれすれのところまで自分の顔をもって行って、まるで生きた恋人同志がするように、死人の唇に、ものの五秒間も接吻していた。男が顔をあげたとき、彼の両眼には大きな涙が浮んでいた。涙は頬を伝《つた》わって死人の冷たい顔の上へ二三滴落ちた。
 不意に、何か容易ならぬことを思い出したものと見えて、男はすっくと起《た》ちあがった。そして、まるで弾機《ばね》をかけられた人形のように、非常な敏捷さをもって活動しはじめた。長火鉢の抽斗《ひきだし》、鏡台の抽斗、それから戸棚の抽斗を次々にあけて、隅から隅まで、併《しか》し、非常にすばやく彼はしらべはじめた。それがすむと、室内をきょろきょろ見まわしながら、何べんも行ったり来たりして何物かを探している様子だったが、そのうちに、ひとりでに弾機《ばね》がゆるんだような工合《ぐあい》にばったり活動をやめて、茫然と部屋の真中に棒立ちになったまま太い吐息を洩らした。目的物はとうとう見つからなかったらしい。
 男はもう一度屍体のそばに跪《ひざまず》いて、前と同じように被害者の顔のそ
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