関係! といっても、まことに他愛のないものではある。思春期の男子に通有の、一種の女性崇拝とでもいった心的状態が、偶然に崇拝の対象として彼女をとらえたまでだったのだ。一体男子がこういう心的状態にあるときは、崇拝の対象となる女性には殆《ほと》んど資格はいらないと言ってもよい。ただ人なみの容貌とほんのちょっとしたインテリジェンスの閃《ひら》めきとをさえもっておればそれで沢山だ。大宅《おおや》――これから彼の本名で呼ぶことにしよう――大宅|三四郎《さんしろう》は、その頃法科の三年生だった。女は朝吹光子《あさぶきみつこ》といって、その頃|浅草雷門《あさくさかみなりもん》のカフェ大正軒の女給の一人だったのである。
 大宅は十数人の女給の中で、どういうわけか光子を崇拝の対象としてえらんだ。彼女は別に他の女給に比してすぐれた点をもっていたわけではないが、笑うとき両頬に笑《え》くぼができることと、滑らかな関西|訛《なま》りとがことによると大宅の気にいったのかも知れぬ。が実は大宅自身にだって、なぜ特に彼女が気に入ったかという理由はわからなかったのだし、そんなことはわからぬのが当然でもあったのだ。
 はじめのうちは、大宅は、毎週土曜日に必ず、大正軒の一つのテーブル――それも大抵《たいてい》他の客が既に占領していない限り、入口から三番目の右側のテーブルときまっていた――に陣どって、好きでもないウイスキーをちびりちびりなめながら、時々光子の姿を見ることで満足していた。二人がはじめて口をきいたのは、それから約三カ月もたってからだった。それはほんのちょっとした挨拶に過ぎなかったのだが、大宅は有頂天になって、その日の日記のしまいに、今思い出すと冷汗《ひやあせ》の出るような甘ったるい詩を書いたことを今でもおぼえていた。
 それから、しばらくたつと冗戯《じょうだん》口の一つもきけるようになり、とうとう公休日に一度二人で日帰りで江《え》の島《しま》まで遊びに行ったこともあった。とはいえその時だって、彼は、汽車に同席したというだけで手先や膝がふれあうのさえ、不必要に用心して彼の方でさけていた位だった。
 外部にあらわれた二人の関係はこんなに淡いものであったが、心の中はそうではなかった。三四郎には光子のあらゆる部分、あらゆる動作が美しく、高貴に、なみなみならぬもののようにさえ見えた。ある時の如《ごと》きは、大正軒の前まで来て、急に彼女にあうのがきまりわるくなって引き返したことすらもあった。
 三四郎が大学を卒業して××省書記に採用されてからまもないある土曜日の晩であった。恰度《ちょうど》四月のことで大正軒の広間には造花の桜が一ぱい咲き乱れており、シャンデリヤは部屋一ぱいに豊満な光を投げていた。白いエプロンの襟《えり》に真鍮《しんちゅう》の番号札をつけた光子は、三四郎のそばに立って一寸《ちょっと》あたりに気をくばりながら低声《こごえ》で言った。
「妾《わたし》近いうちにここをやめようと思うの」
 芳醇なカクテールにほんのり微酔《ほろよい》していた三四郎は、
「そりゃ困るね。君が居なくなっちゃ僕の生活はアメリカ無しのコロンブス同然だよ」と彼はドストエフスキーの文句をひいて不良少年じみた冗戯《じょうだん》口調で言った。
「でもね」と光子は存外|真面目《まじめ》で、矢張り四辺《あたり》に気をくばりながら低声《こごえ》で続けた。「カフェの女給なんてまったく奴隷みたいなものよ。主人からもお客からもふみつけにされてね。それでいて朋輩《ほうばい》同志だってみんなひがみあっているのよ。口先では体裁のいいことを言っているけれど、女なんて心の中じゃみんな仇《かたき》同士だわ」
 日頃からフェミニストをもって任じていた三四郎は、女からこの現実的な訴えをきいて、虐《しいた》げられた女を虐げられた状態のままに享楽しようとしていた自分の矛盾を恥じた。そして非常に感激して、急に真面目になって言った。
「そりゃいい決心だ。まったくこういう所に長くいてはよくない。があとで生活に困りやしないかね?」
「………」
「月にいくらあったらやっていけるもんかなあ?」
「いくらもかからないと思うのよ。間借りでもしてゆけば」と光子はうつむきながら答えた。
「三十円位なら僕でも出せるがなあ。君さえかまわなければ」
「だってそんなことをしていただいちゃすまないわ」
「なあに、君の方さえよければ、僕は是非《ぜひ》そうさして貰いたい位だ」
 こうして光子はカフェをやめることになったのである。大宅は実際月三十円の負担と、一人の女性を奴隷状態から救ったという、人道主義者的の誇りとの交換を後悔してはいなかった。その日から大宅の生活は一層ひきしまって彼はふわふわした女性崇拝主義者から、堅実な青年に一変したのであった。それまでだって
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