いたに相違ない。そいつが、靴をかくして自分をまごつかせてやろうとたくらんだのだ。ことによると、もうおもてには警官が待ちかまえていて、自分が一歩門外へ足を踏み出すが早いか、自分の手には鉄の手錠がはめられるような手筈になっているのかも知れぬ――こういう疑いが、稲妻のように彼の頭を横《よこぎ》って過ぎた。手頸に冷たい金属が触れたような感覚さえおぼえた。彼は急いで女下駄を爪先《つまさき》にひっかけて、夢中でおもてへ飛び出した。
 意外にも、そとには何の変ったこともなかった。彼は張り合抜けがしたような気のゆるみを感じたが、それでも矢張りまんべんなく周囲に気をくばりながら、路地を抜けて通りへ出た。
 暮れて間もない山吹町《やまぶきちょう》の通りは、いつものように大変な人出であった。夜店|商人《あきんど》のまわりには用もない通行人がたちどまって、そこここに人垣をつくっており、夜店などには眼もくれない連中《れんじゅう》が、両側の人垣の間を、ひっきりなしに次から次へと往《ゆ》き来していた。こういう人ごみの中へ出てしまうと、彼の真蒼《まっさお》な顔も人眼をひく程目だたなくなり、背広をきて女下駄を穿いている妙な恰好にも誰一人注意する者はないらしかった。凡《すべ》てが、普通であり、何等《なんら》異常な点はなかった。つい数十歩はなれた路地に酸鼻《さんび》を極めた悲劇が起っていることを思わせるような何物もなかった。大都会という巨大な存在には、あれ位な出来事は皮膚の上へ一片の埃《ほこり》が落ちた位の刺戟《しげき》しか与えないのだろう。ことによると、東京市内に、これ位な事件は、現在二十も或いはそれ以上も起っていて、しかも誰一人それに気がついていないのかも知れぬ。
 しかし、彼自身は大都会そのもののように無感覚ではあり得ない。彼は昼夜《ちゅうや》銀行の前まで来ると、筋向いの靴屋のショーウインドウの前に立ちどまり、その中から自分が前に穿いていた靴によく似た一足を物色して、中へはいってそれを買って穿いた。靴屋の小僧は、彼の風体などには全く無関心で、まるで洋服を着て女下駄をはいているのは極《ご》く普通の服装でもあるかのように、少しも平常《ふだん》と変ったところはなく、愛嬌よく、しかも非常に事務的に新聞紙で下駄を包んで彼に渡した。彼は、江戸川橋《えどがわばし》の上からそっと下の川へその包みを投げすてて、急いでひき返して電車にとびのった。

        二

 証拠をのこさないように非常に用心したに拘《かかわ》らず、既に二つの重大な手落ちをしたことがひどく彼の気を腐らした。一つは、昨日《きのう》被害者に出した手紙をどうしても発見することができなかったことだ。昨日の夕方|丸《まる》の内《うち》でポストへ入れたのだから、今日の午前中にあの手紙はついている筈だ。して見ると九分九厘《くぶくりん》まではあの家《うち》の中にその手紙はのこっているに相違ないし、家の中にのこっている以上は、おそかれ早かれ臨検《りんけん》の警官に見つかるにきまっている。しかもその手紙には、今日の夕刻役所からの帰りにあの家[#「あの家」に傍点]へ立ち寄るということが記《しる》されてあるのだ。
 彼は電車に乗って間もなくしまった[#「しまった」に傍点]と思った。あの手紙は女が懐中か或《あるい》は袂《たもと》の中へ入れていたのにちがいないということが気がついたのである。女の身のまわりを探さなかったことは何という取り返しのつかぬ不覚だったろう。彼には、被害者の襟元《えりもと》から、水色の封筒のはしがはみ出しているのが、まざまざ見えるような気がした。ほんとうにそれを見たようにさえ思われ出して来た。おまけに、何よりも困ったことには手紙の用箋に役所の用箋をつかったことだ。
 いま一つの手落ちは、何者かが玄関の戸をあけて靴を盗んで行ったのに気のつかなかったことである。玄関と居間との間の襖はしまっていたから、中の様子が玄関から見えるわけはないけれども、彼は靴を盗まれても知らずにいた位だから、どんな隙間からのぞかれていたか知れたものでない。靴を盗んだ奴《やつ》は、靴をかくしておけば逃げ出す心配はないと単純に考えて、その間に交番へかけつけて一部一什《いちぶしじゅう》を巡査に訴えたのかも知れない。そうだとすると彼は電車道までの帰りがけに、急をきいて現場へかけつける巡査とすれちがったのかも知れないことになる――考えただけでも彼は背筋が寒くなった。
 ――それにしてもあの女はかわいそうなことをしたものだ――彼の頭は急に別なことを考えはじめた。上野広小路《うえのひろこうじ》で神明町《しんめいちょう》行きに乗りかえてから、俄《にわか》に混雑して来た電車の中で、彼は過去二年間にまたがる、被害者との関係を次から次へと回想しはじめた。

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