、二人の間の関係はきれいなものではあったが(勿論《もちろん》心の中まで彼がピューリタンであったわけではないが)その後は益々きちょうめんになって、光子が山吹町の路地に六畳に三畳の借家《しゃくや》ずまいをするようになってから今まで、手紙の往復以外に、二人が直接会ったことは今夜とでも三度しかなかった位である。金で女に恩を売ったように思われることを極度に警戒して彼は避けていたのだ。
 二人のこれまでの関係を知っているもの――或は誤解しているものと言った方が適当かもしれぬ――は世界中に一人しかない――少なくも大宅はそう信じていた。それは、大宅が役所へつとめてから間もなく田舎《いなか》の女学校を出て上京してきた、許嫁《いいなずけ》の嘉子《よしこ》だった。大宅は嘉子と同棲する前に、そうするのが義務であると信じて、すっかり光子との従来の関係を彼女に平気で自白してしまったのであった。その時嘉子の顔がさっと曇ったのを大宅は今でもよく記憶していた。
 光子からはその後時々手紙がきた。二人は会った時はいつも淡白にわかれたが、手紙ではかなり濃厚な文字をつらねることもあった。まるで普通の男女間の交際の公式の反対なのだ。それで光子からその手紙がつく度《たび》に、嘉子の心が平らかでなかったことは、言うまでもなかった。嘉子は明《あきら》かに二人の関係を誤解しているのだし、誰だって誤解するにきまったような関係でもあったのだ。
 ことに、昨日の朝着いた光子からの手紙には、是非今日会って話したいことがあると書いてあったので、それがもとになって、彼が光子にまだ仕送りをつづけているのはあまりに嘉子をふみつけにしたしうちだと、嘉子が涙ぐんで食ってかかったのをきっかけに、今朝《けさ》、役所へ出がけに二人は同棲後はじめてひどい喧嘩《けんか》をしたのであった。三四郎の方では、光子に対して何等《なんら》疚《やま》しい関係はないということ、男子が一たん約束をした以上は、何とか相手の身のふりかたがきまるまでは約束をやぶるわけにはゆかないことを意地になって言い張ったので、とうとう喧嘩別れになったままで彼は出ていったのであった。嘉子は嘉子で「これから妾《わたし》が光子さんに会ってじかに話をきめてきます」と捨台詞《すてぜりふ》をのこして三四郎にわかれたのだった。
 ところが三四郎が役所から帰りに光子の家へ来て見ると、光子はもう屍体となってしまっていたのだ。

        三

 光子の屍体を見出した瞬間から、大宅三四郎の頭には、どうしても抹殺《まっさつ》することのできない疑いが執拗《しつよう》に巣くった。彼はこの疑いに触れることを恐れて、わざと避けていたのであるが、避けようとすればする程、益々はっきりとした形を帯《お》びてくるようにすら思われた。
 彼は自分の家へ入るのを恐れた。――嘉子はもう帰っているだろうか? どうしているだろう。犯した罪の恐ろしさに泣きくずれているのじゃなかろうか? もう既に警官に発見されて引致《いんち》されたのじゃなかろうか?――
 まるではじめての家を訪れる時のように、彼はしばらく我が家の前に佇《たたず》んで思案をこらしていた。家の中は森閑《しんかん》としていて別に変った様子もなかった。とうとう彼は思いきってくぐりを開けた。
 玄関へ迎えに出た嘉子の態度にはひどく平常《ふだん》と変った点はなかった。ただいつもとちがっている点は、殆んど口かずをきかないこと位だった。しかし、それは今朝役所へ出かける時に傷つけられた感情の余勢と見る方が自然な位であった。
「まあどうしたんでしょう」大宅の脱いだズボンをたたんでいた嘉子は、突然|吃驚《びっくり》して叫んだ。「おズボンに血がついててよ」
「えっ」と血相をかえて大宅は叫んだ。なる程ズボンの膝のところに、まだ生々しい血のりがついていた。あれだけ用心をして来たのに、家へ帰るが早いかこんな大手抜かりを発見されたことは、彼の心をひどく萎縮させた。彼はまごまごしてしまって、血のついたわけを説明する口実を見出すこともできなかった。
「どうしてそんなもんがついたのかなあ、とに角《かく》汚いからよく洗っといておくれよ……それからと、今日誰か訪ねて来なかったかい?」と彼はなるべく自然に話頭《わとう》を転換しようとした。
「ええ別にどなたも……そうそう、そういえば夕方ちょっとお巡《まわ》りさんが来ましたわ」
「何、巡査が?」
「ええ、ずいぶん人の悪いお巡りさんよ。わたしのことをいろいろ根掘り葉掘りきくんですもの」
「どんなことをきいたんだ?」
「………」
「なんてきいたの?」
「御主人とどういう関係ですかなんてね。妾《わたし》返事に困っちゃったわ。だってまだ籍ははいっていないし、姓がちがうから妹だなんて言うわけにもいかないし、仕方がないから親
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