戚のものだって言っといたわ」
「なんだ、戸籍しらべか? それっきりだったかい?」
「帰りがけににやにや笑っていたわ。きっともう知っているのよ」
「何を知ってるんだ?」
「………」
三四郎は思わずにじりよったが、不図《ふと》勘ちがいで真面目になりすぎたことに気がついて、あとは笑いにごまかしてしまった。
それっきり二人はだまって食膳に向った。今朝の喧嘩のことも光子のことも二人とも一語も言わなかった。但し三四郎は嘉子の様子をそれとなく注視していた。彼には何もかもが意外だらけだった。恐るべき罪を犯した筈の嘉子のあの驚くべき落ちつきはどうだろう。ことによると嘉子は何も知らぬのじゃないかしら。いやそんなことは絶対にあり得ない。今朝の彼女の言葉、いま光子のことをわざと一言も言いださぬ点、つとめて落ちついた態度を装っているらしいこと、それ等《ら》の事実は、すべて彼女が犯人だという断定に帰着してゆくのであった。
――しかし、すんだことはしかたがない。なるべくこの事件は、このまま秘密に葬られてしまってくれればよいが、人を殺すというようなことは許すべからざる大罪だが、もとはみんな自分のためだ。自分を愛すればこそ、嘉子はあんな大胆なことをしたのだ。法網をくぐるのはよいことではないが、あの女が法のさばきを受けるとなると、自分は手を下さずして二人の女を殺したも同然になる。何とかしてこのままにそっとすましてしまいたいものだ――
四
三四郎はその晩一睡もできなかった。宵《よい》に目撃した惨劇、それにつながる様々な回想と、臆測とが、次から次へと彼の頭の中を交替して占領するのであった。神経は針のように尖って、ごとりと音がしても、警官がふみこんで来たのではないかと思ってひやりとした。
――嘉子が果《はた》して犯人だろうか? ――この疑いは特に彼を苦しめた。
――女というものは異常な場合には異常なことをし兼ねない性質をもっている。特に愛する男のためには、想像もできないような残忍性を発揮することがある――とりわけ――彼はバルザックの言葉を思い出した――女というものは、一度別の女のものであった男を愛する場合には、全力を賭《と》して戦うものだそうである。しかも、彼女の場合がちょうどそれにあたるではないか?
――二人の女が――しかも多感な女が一人の男を奪いあう場合、彼女達は手段をえらばない。どんな残忍な、どんな陰険な手段でもとりかねない。色情のために犯された放火や殺人|等《とう》の惨劇は枚挙に遑《いとま》ない程ある。――考えれば考える程、恐ろしい疑いは益々具体的な形をとって来るのであった。
――元来、女は嫉妬という兇器をもっている。恋することの強い女ほど嫉妬も強い。「嫉妬せざる女は恋せざる女なり」というオーガスチンの言葉を逆にすれば、「恋する女は嫉妬する女なり」ということになる。ところで嘉子は自分を熱愛している。自分を熱愛していることは、光子に対する強烈な嫉妬の存在を証《しょう》するわけだ――
嘉子も長く眠《ね》つかなかった。三四郎は嘉子の小さい頭の中で、良心が彼女をせめさいなんでいるさまを想像していじらしくなって来たが、それと同時に、あくまでも自分の犯行をつつんで、表面平気を装うているらしい彼女の大胆さがにくらしかった。
いずれにしても、光子の家で、へまな証拠をのこして来たことを彼はかえすがえすも後悔した。あれがもとで足がついて、嘉子の犯罪が発覚するようなことになったら大変だと彼は思った。もしもの場合には、証拠をのこしておいたのを幸いに、自分ですべての罪をきてやろうかとも考えた。しかし、そんなことをしたところで嘉子の身は矢張り破滅だ。彼女は、自分に罪をきせてだまっているような女ではない。矢っ張りこのまま何事もわからず、闇から闇に葬られてしまえばよいがなあ――
彼が妄想にふけっているうちに、いつのまにか眠っていたらしい嘉子の唇がその時突然動いた。
「許して下さい、光子さん。あーれ、光子さん――」
三四郎は飛び上《あが》るほどびっくりして、
「どうしたんだ、おい」
と次の文句を聞くのがおそろしさに、嘉子の肩の辺《あたり》をつかまえて揺《ゆす》り起した。嘉子はびっくりして眼をさました。
「ああ怖かった。夢でしたのね。ああよかった。妾《わたし》何か言って?」
「何かうなされていたよ」
「まあこわかったわ――でも不思議ね。ちょうど妾《わたし》が考えていることを夢に見たのよ」
「どんな夢を見たんだ?」
「あなたが気を悪くするといけないから今は言えないわ。ああ恐ろしかった」
彼女はまだ恐ろしさにふるえていた。三四郎も恐ろしさにふるえた。恐怖にとらわれて二人は思わず顔を見あわせた。そして、相手の形相《ぎょうそう》を見て更《さら》にふるえた。
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