でひき返して電車にとびのった。
二
証拠をのこさないように非常に用心したに拘《かかわ》らず、既に二つの重大な手落ちをしたことがひどく彼の気を腐らした。一つは、昨日《きのう》被害者に出した手紙をどうしても発見することができなかったことだ。昨日の夕方|丸《まる》の内《うち》でポストへ入れたのだから、今日の午前中にあの手紙はついている筈だ。して見ると九分九厘《くぶくりん》まではあの家《うち》の中にその手紙はのこっているに相違ないし、家の中にのこっている以上は、おそかれ早かれ臨検《りんけん》の警官に見つかるにきまっている。しかもその手紙には、今日の夕刻役所からの帰りにあの家[#「あの家」に傍点]へ立ち寄るということが記《しる》されてあるのだ。
彼は電車に乗って間もなくしまった[#「しまった」に傍点]と思った。あの手紙は女が懐中か或《あるい》は袂《たもと》の中へ入れていたのにちがいないということが気がついたのである。女の身のまわりを探さなかったことは何という取り返しのつかぬ不覚だったろう。彼には、被害者の襟元《えりもと》から、水色の封筒のはしがはみ出しているのが、まざまざ見えるような気がした。ほんとうにそれを見たようにさえ思われ出して来た。おまけに、何よりも困ったことには手紙の用箋に役所の用箋をつかったことだ。
いま一つの手落ちは、何者かが玄関の戸をあけて靴を盗んで行ったのに気のつかなかったことである。玄関と居間との間の襖はしまっていたから、中の様子が玄関から見えるわけはないけれども、彼は靴を盗まれても知らずにいた位だから、どんな隙間からのぞかれていたか知れたものでない。靴を盗んだ奴《やつ》は、靴をかくしておけば逃げ出す心配はないと単純に考えて、その間に交番へかけつけて一部一什《いちぶしじゅう》を巡査に訴えたのかも知れない。そうだとすると彼は電車道までの帰りがけに、急をきいて現場へかけつける巡査とすれちがったのかも知れないことになる――考えただけでも彼は背筋が寒くなった。
――それにしてもあの女はかわいそうなことをしたものだ――彼の頭は急に別なことを考えはじめた。上野広小路《うえのひろこうじ》で神明町《しんめいちょう》行きに乗りかえてから、俄《にわか》に混雑して来た電車の中で、彼は過去二年間にまたがる、被害者との関係を次から次へと回想しはじめた。
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