山吹町の殺人
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)血の気《け》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)夜店|商人《あきんど》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あの家[#「あの家」に傍点]
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        一

 男の顔にはすっかり血の気《け》が失《う》せていた。ふらふら起《た》ち上《あが》って台所へ歩いてゆく姿は、まるで幽霊のようだった。出来るだけ物音をたてないように用心しながら、彼はそっと水道の栓《せん》をねじって、左手の掌《てのひら》にべっとりついている生々《なまなま》しい血糊《ちのり》を丹念に洗い落した。それから、電灯の下へ引き返して、両手をひろげて、何べんも裏返して見たり、斜《ななめ》にかざして光にすかして見たりして、指の股や、爪の根元に至るまで、精細に検査した。
 ほっとした様子で、彼はぼんやり床《ゆか》の上へ眼をおとした。そこには一人の若い女が、見るも無残な殺されかたをして横《よこたわ》っていた。左の乳房の下部、ちょうど心臓の真上と思われるところを、手拭地の浴衣《ゆかた》の上から、ただ一突きに短刀で突き刺されて仰向けに倒れ、左手はあわてて傷口のあたりをおさえたような恰好になって血の中に埋《うず》まっており、右手は右の鬢《びん》のあたりまで上げられたまま硬直していた。下半身もしどけなく取り乱してはいたが、別段ひどい格闘の行われたようなあともなく、急所をねらったただの一突きで即死したものらしかった。
 凝乎《じっ》と見つめていると、躯幹《くかん》とほぼ直角につきさされたままになっている短刀の柄《つか》が、かすかに動いているようにも見えたが、その実、傷口の周囲に夥《おびただ》しく流れている血液の表面にはもう大きな皺《しわ》ができていた位だから、被害者が兇行を受けてから、既《すで》に少なくも一二時間を経過していることは確実であった。
 男はくるりとうしろを向いて押入れの襖《ふすま》をあけ、メリンスのかけ布団を一枚出して、ふわりと屍体《したい》の上にかけた。短刀の柄のところが少し凸出《とっしゅつ》してはいたが、何も知らぬ人が見れば、まるで、疲れてぐっすり熟睡しているように見えた。
 突然、男は屍体のそばに膝をついた。そして、如何《いか》にも感慨にたえぬような様子で
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