、被害者の蒼《あお》ざめた額をさわったり、ほつれ髪をかき上げたりしていたが、やがて、死人の顔とすれすれのところまで自分の顔をもって行って、まるで生きた恋人同志がするように、死人の唇に、ものの五秒間も接吻していた。男が顔をあげたとき、彼の両眼には大きな涙が浮んでいた。涙は頬を伝《つた》わって死人の冷たい顔の上へ二三滴落ちた。
 不意に、何か容易ならぬことを思い出したものと見えて、男はすっくと起《た》ちあがった。そして、まるで弾機《ばね》をかけられた人形のように、非常な敏捷さをもって活動しはじめた。長火鉢の抽斗《ひきだし》、鏡台の抽斗、それから戸棚の抽斗を次々にあけて、隅から隅まで、併《しか》し、非常にすばやく彼はしらべはじめた。それがすむと、室内をきょろきょろ見まわしながら、何べんも行ったり来たりして何物かを探している様子だったが、そのうちに、ひとりでに弾機《ばね》がゆるんだような工合《ぐあい》にばったり活動をやめて、茫然と部屋の真中に棒立ちになったまま太い吐息を洩らした。目的物はとうとう見つからなかったらしい。
 男はもう一度屍体のそばに跪《ひざまず》いて、前と同じように被害者の顔のそばへ自分の顔を寄せて、そっと頬と頬とをすりあわせていたが、やがて、力一ぱい女の顔を自分の頬におしつけた。死人を相手にしてのこれ等《ら》の凡《すべ》ての動作は、全くの沈黙のうちに行われたのであった。
 やがて男は、受持の役割を無事にすまして舞台裏へ退場する俳優のように、落ちつき払って玄関の間《ま》へ出て、帽子をかぶり、玄関に腰をかけて靴を穿《は》こうとした。彼の視神経は忽《たちま》ち緊張し、彼の視線は急速度で旋廻《せんかい》する探照灯のように前後左右へ旋廻した。
 靴がないのだ。たしかに靴脱台《くつぬぎだい》の上へ脱いでおいた筈の靴が、影も形もなくなっているのだ。念のために彼は下駄箱をあけて見たが、無論そんなところへ靴がひとりでに移転している筈はない。土間には、平常履《ふだんば》きの女下駄が一足脱ぎすててあるばかりだった。やっと回復した彼の落ちつきは、この思いがけない出来事のために根柢《こんてい》から覆《くつが》えされてしまった。しかも、気がついて見ると、たしかにしめておいた筈の玄関の戸が開けっぱなしになっているのである。
 ――きっと誰かこの戸をあけて、どっかの隙間から自分の行為を見て
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