いたに相違ない。そいつが、靴をかくして自分をまごつかせてやろうとたくらんだのだ。ことによると、もうおもてには警官が待ちかまえていて、自分が一歩門外へ足を踏み出すが早いか、自分の手には鉄の手錠がはめられるような手筈になっているのかも知れぬ――こういう疑いが、稲妻のように彼の頭を横《よこぎ》って過ぎた。手頸に冷たい金属が触れたような感覚さえおぼえた。彼は急いで女下駄を爪先《つまさき》にひっかけて、夢中でおもてへ飛び出した。
意外にも、そとには何の変ったこともなかった。彼は張り合抜けがしたような気のゆるみを感じたが、それでも矢張りまんべんなく周囲に気をくばりながら、路地を抜けて通りへ出た。
暮れて間もない山吹町《やまぶきちょう》の通りは、いつものように大変な人出であった。夜店|商人《あきんど》のまわりには用もない通行人がたちどまって、そこここに人垣をつくっており、夜店などには眼もくれない連中《れんじゅう》が、両側の人垣の間を、ひっきりなしに次から次へと往《ゆ》き来していた。こういう人ごみの中へ出てしまうと、彼の真蒼《まっさお》な顔も人眼をひく程目だたなくなり、背広をきて女下駄を穿いている妙な恰好にも誰一人注意する者はないらしかった。凡《すべ》てが、普通であり、何等《なんら》異常な点はなかった。つい数十歩はなれた路地に酸鼻《さんび》を極めた悲劇が起っていることを思わせるような何物もなかった。大都会という巨大な存在には、あれ位な出来事は皮膚の上へ一片の埃《ほこり》が落ちた位の刺戟《しげき》しか与えないのだろう。ことによると、東京市内に、これ位な事件は、現在二十も或いはそれ以上も起っていて、しかも誰一人それに気がついていないのかも知れぬ。
しかし、彼自身は大都会そのもののように無感覚ではあり得ない。彼は昼夜《ちゅうや》銀行の前まで来ると、筋向いの靴屋のショーウインドウの前に立ちどまり、その中から自分が前に穿いていた靴によく似た一足を物色して、中へはいってそれを買って穿いた。靴屋の小僧は、彼の風体などには全く無関心で、まるで洋服を着て女下駄をはいているのは極《ご》く普通の服装でもあるかのように、少しも平常《ふだん》と変ったところはなく、愛嬌よく、しかも非常に事務的に新聞紙で下駄を包んで彼に渡した。彼は、江戸川橋《えどがわばし》の上からそっと下の川へその包みを投げすてて、急い
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