って必要な程度に全身が温まってくる。むしろ雪道を歩くのは汗の出る仕事である。今村は、暗い空から無限に湧いては、軒灯の光の中を斜めに切って、ほてった顔にばらばらと降り注いでくる灰色の雪の冷たい感触をむしろ享楽していた。彼が、一見風に吹かれてよろけているように見えたのは、実は、一歩一歩大地を踏みしめる足の下から、温泉のように湧き上って来る幸福な思想のばねにはねかえされて躍《おど》っているのであった。
 実際今村はお伽噺《とぎばなし》の王子のように幸福であった。吹雪は、自然が彼の幸福にささげてくれる伴奏のように彼には思われた。人気のない天地の中に、ただ独り歩いている彼にとっては、空想は外部から邪魔されるおそれはない。ことに雪の夜の都会は空想の翼をほしいままにひろげるには此の上なく好都合な環境である。少年時代の思い出、未来に対するかずかずの希望、現在の生活の満足さ、果報さ――こうした思想の細片が、一つ一つ歓喜の詩となって、彼の頭の中で、最も非現実的な、お伽噺の中でのみ見られる幸福の讃歌を綴ってゆくのであった。
 わけても、今村のほしいままな空想をややもすれば独占しようとするのは、近い将来に彼等
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