うである。
 この荒寥《こうりょう》たる大都会の夜景の中を、全人類を代表して自然の暴力に抵抗しようとしている人のように、吹雪を真正面に受けて、新橋から須田町の方角へ向かって歩いてゆく一点の人影があった。自然は又自然で、小ざかしい人間の企図を思うまま弄殺《ろうさつ》してやろうと決心したかのように、時には、唸《うな》りをたてて疾風を送り、時にはけろり[#「けろり」に傍点]と静まって、まるで傍観しているような様子を示す。
 人間は、寒さにいじけ、風に圧せられてよろけかかっているように見える。此の世に希望を失った人生の落伍者が、あてどのない八つあたりの不平と自己嫌悪とに気を腐らして、人生の行路さながらの吹雪道を無目的に歩いているように見える。
 しかし、十時の夜勤をすまして駒込《こまごめ》の自宅へ徒歩で帰ろうとしている、浅野護謨会社事務員今村謹太郎ははたで思う程あわれな存在ではなかった。第一雪道を歩くのは経験のない人が想像する程寒いものではない。少しくらい靴の皮をとおして水気が足へしみこんだところで、摩擦の熱は、それを蒸発させるに十分である。歩行の速度を少しばかり速めさえすれば、運動が熱にかわ
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