要がないのだ。彼には何だか勿体《もったい》ないような気がするのであった。おまけに、この幸福な思想の特徴は、何度繰り返して頭に浮んできても決して、平凡な無刺戟なものになってしまうようなことはなくて、いつも、いきいきとした新鮮な姿で現われ、それが浮んで来る度びに、彼の幸福の雰囲気を濃厚にする不思議な力をもっていたことである。
二、吹雪の夜の大都会
夜の十時過ぎ。平生《ふだん》ならば、銀座通りはまだ宵のうちだ。全日本の流行の粋《すい》をそぐった男女の群が、まるで自分の邸内でも歩いているように、屈託のない足どりでプロムナードを楽しんでいる時刻だ。
けれども、その日は朝から雪で、午過ぎからは風が加わって吹き降りにかわっていた。九時頃には二寸も粉雪がつもって電車もとまってしまった。車道も歩道も街路樹も家々の屋根もただ見る一面の雪におおわれている。時々、自動車が、猪のように疾走して去る外には殆んど生物の住んでいることを暗示させるものは何もない。まるで、大自然の威力の前に、脆弱《ぜいじゃく》な人間の文明がおどおどして、蝸牛《かたつむり》のように頭をかたく殻の中へかくして萎縮しているよ
前へ
次へ
全39ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング