犠牲者
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)了《お》えていない

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六畳一|室《ま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けろり[#「けろり」に傍点]
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     一、小さな幸福

 中学の課程すらも満足に了《お》えていない今村謹太郎《いまむらきんたろう》にとっては、浅野護謨《あさのごむ》会社事務員月給七十五円という現在の職業は、十分満足なものであった。自分のような、何処といって取柄のない人間を、大金を出して雇ってくれている雇主《やといぬし》は世にも有り難い人であると、彼はいつも心から感謝していた。
 彼は、それだけの給料で、ささやかながらも、見かけだけは堅牢な家庭生活を築き上げていた。彼の郷里である山陰道の農村から、殆《ほと》んど富士山も見ないようにして、まっすぐに彼の家庭へとびこんで来た細君は、村の生活と、彼等二人の家庭生活とのほかには、世間のことは文字通り何も知らず、彼等の生活とちがった人生が、此の世の中にあり得るなどと考えたことすらもなかった。夫婦の生活という
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