えがありません」というような答えは真犯人の常套語であるということを、従来の経験にてらして知りぬいている課長は、今村の返事などは歯牙にもかけずに訊問をすすめた。
「おぼえのない人間が、どうしてつかまった時に『家内はこのことを知っておりますか』なんて云う必要があるのか? 自動車に乗せられるときは『もう駄目だ』なんて独り言をいう必要があるのか? いずれ重大な事件だから、すぐに係りの検事から審問がある筈だが、なまじっか偽《いつわり》を申し立てぬがいいぞ。隠してはためにならぬぞ」
課長は肥った身体を満足そうにゆすぶりながら、言いたいだけのことを言ってしまうと、先刻から不動の姿勢をとっていた護衛の警官にあご[#「あご」に傍点]の先で合図した。
今村は、咽喉に栓が詰って、一言もものがいえなかった。しょんぼりとして、警官にひきたてられてゆく彼の姿を見ると誰の眼にも、すっかり恐れ入ってひきさがってゆく罪人とかわりはなかった。
実際今村自身にさえ、自分が罪人であるとしか思われなかったのである。絶体絶命の不可抗力に、「お前が犯人だ」と暗示され、その暗示は、人間わざではどうすることもできないような気がし
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