不安に打たれた。課長に対する敬愛の心は、忽ち憎悪の念にかわった。唇は歪み、舌はひきつってとみに返事もできなかったので、彼はだまっていた。ところが彼がだまっていたのは、却って彼の図太さの証拠であると課長は判断してこういう場合にいつも用いる、息をもつかせぬ「急追法」をとった。

     七、証拠

「昨夜君は何時に社を出た?」
「かっきり十時に出ました」
「それから真直に家へ帰ったか?」
「はあ真直に帰りました」
「そうか、君は算術は出来るね? 社を出たのがかっきり十時、それで君が家の門口まで帰ったのは今朝の一時二十分過ぎだ。君は帰り途に三時間と二十分費やしているわけだよ。その頃は電車はとまっていたそうだが、京橋から君の家までは、いくら足のおそい人でも、徒歩で二時間あれば沢山だ。ことに昨夜のような雪の晩には、誰でもそうのろのろ歩いているものはない。若し君が真直に家に帰ったのなら、十時に社を出たというのは偽りだろう」
 今村は帰途で奇禍にあったことを余っ程話そうかと思った。けれども、それは何も証拠のないことである。却って不自然なつくり話だと思われる恐れがある。彼は返事に窮してまただまった。
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