たのかも知れない。いずれにしても、何も証拠はないのだから、訴えたところで加害者のわかる気遣いはなし、加害者がわかったところで彼には何の利益もない。ただ、彼と同じように交替の時間が来て家へ帰れるのを待っているお巡りさんに無駄な手数をかけ、自分もたとえしばらくでも時間を空費するだけのことだ。しかも、若しこれが人間の所為ではなくて、偶然の天災であるとしたらどうだろう。大自然を交番に訴えて、人間に裁いてもらうなんて、考えただけでも滑稽ではないか?
 とは言え、まるで先刻《さっき》の不意の一撃が、今村の頭から歓喜の感情をすっかり追い出し、彼の身体から体温をすっかり奪ってしまったかのように、彼は身体じゅうにはげしい寒さを感じた。頭の中にはもう一片の空想も芽ぐむ余地がなかった。ことに局部の痛みと手さきの冷たさとは全身の調子をひどく不愉快にした。その上、何となく不吉な予感が、彼の心を執拗《むやみ》に蝕ばむのである。まるで、これまで運命の神にめぐまれていると信じきっていた人間が、突然、最も露骨な、醜悪極まるやりかたで、不信任の刻印をおされた時のような不面目な気持ちがするのである。安心と満足との山頂から、
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