だけのことを是非言っておかないと弁護士という職業に従っている私の妙な態度を誤解される恐れがあるから、ちょっと言っておくのである。
 閑話休題、今村が本郷の通りを真っ直ぐに、上富士前へ出て、横町を左に折れて木戸坂の方へさしかかった時は、もう時計は十一時を大分まわっていた。
 あたりに立ち並んでいるしもた[#「しもた」に傍点]家には、軒灯のついているのは珍らしい位なので、道筋は概して薄暗かった。町はずれの夜中の十二時前、しかもひどい吹雪と来ては、よっぽど差し迫った用事のある人でなければ門外へ足を踏み出す気遣いはない。一つ場所に三十分もたっていても、恐らく一人の人間にも出遇うことはないであろう。
 こういう寒い晩には、今村の細君は湯豆腐をこしらえておいてくれる習慣になっていた。今村は急に空腹を意識して、熱い湯豆腐を眼の前に想像しながら足をはやめた。その時、彼はだしぬけに、脳天のあたりにひどい衝撃を感じた。非常に堅い物体で力一ぱいかーんと喰らわされたような感じだった。くらくらと脳髄《のうずい》が痺《しび》れたような感覚があったかと思うと、ぱったりその場に昏倒してしまった。それは、ものの二秒ともたたぬ間の出来事であった。
 それから何分間たったか、それとも何時間たったかわからない。彼が意識を恢復した時に外套《がいとう》の上に積っていた雪の厚さから察すると、少なくも一時間以上もたっていたであろう。彼は無言のままふらふらと起き上った。あたりは何事もなかったように静まり返っている。彼はずきずき痛む頭へ手をあてて見た。別に血の出ている様子もない。彼は身体をゆすぶって外套の雪を払い落した。帽子を拾いあげて羅紗《らしゃ》にくっついている雪を落してかぶった。今までポケットへ手をつっこんでいたので気がつかなかったが、手袋が片っぽしかない。あたりの雪を足でかきまぜてさがして見たがどうしても見あたらぬ。どっかで落したものらしい。彼は、この馬鹿げた事件をひとりで苦笑《にがわらい》するより他はなかった。交番へ訴える必要はないと彼は判断した。第一これを人間が故意に彼に加えた行為であると断定する根拠は何もない。暴行者の顔を見たわけでもなければ声を聞いたわけでもない。まるで降って湧いたように頭をどやしつけられたというに過ぎないのだ。ことによると上から、瓦《かわら》か或は枯枝か何かが、偶然彼の頭上へ落ちて来たのかも知れない。いずれにしても、何も証拠はないのだから、訴えたところで加害者のわかる気遣いはなし、加害者がわかったところで彼には何の利益もない。ただ、彼と同じように交替の時間が来て家へ帰れるのを待っているお巡りさんに無駄な手数をかけ、自分もたとえしばらくでも時間を空費するだけのことだ。しかも、若しこれが人間の所為ではなくて、偶然の天災であるとしたらどうだろう。大自然を交番に訴えて、人間に裁いてもらうなんて、考えただけでも滑稽ではないか?
 とは言え、まるで先刻《さっき》の不意の一撃が、今村の頭から歓喜の感情をすっかり追い出し、彼の身体から体温をすっかり奪ってしまったかのように、彼は身体じゅうにはげしい寒さを感じた。頭の中にはもう一片の空想も芽ぐむ余地がなかった。ことに局部の痛みと手さきの冷たさとは全身の調子をひどく不愉快にした。その上、何となく不吉な予感が、彼の心を執拗《むやみ》に蝕ばむのである。まるで、これまで運命の神にめぐまれていると信じきっていた人間が、突然、最も露骨な、醜悪極まるやりかたで、不信任の刻印をおされた時のような不面目な気持ちがするのである。安心と満足との山頂から、不安と恐怖とのどん底へ突き落されたような気持ちがするのである。
 彼は世界が急にまっ暗になり、今まで光り輝いていた自分の未来が見る見るその闇の中へ吸いこまれてゆくように思った。

     四、拘引

 妙な出来事のために不愉快な心を抱いて、今村が自宅の門口にさしかかって来たときである。不意に、まるで雪の中から湧いて出たように、三四人の黒い人影が、ばらばらと彼の面前に現われて、粗暴とも不礼ともいいようのないやりかたで、両方から彼の腕を鷲掴《わしづか》みにした。
 自信をもっていた人間が、一たん自信を裏切られると、それから先はひどく臆病になってしまって、何事にも自信がもてなくなる。一種の強迫観念にとらわれてしまって、することなすことが、悉《ことごと》くへま[#「へま」に傍点]の連発になる。勝負事に一度敗け出すととめどなく敗けつづけるような工合である。
 今村は、不意に闇の中からあらわれた暴漢の、無法極まる仕打ちに対して、抗議することも何も忘れてしまった。まるでそういう取り扱いを受けるのは当然のことで、自分はそれにさからう資格のない人間ででもあるような気がした。
「静かにしろ」と一人の壮漢
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