うである。
 この荒寥《こうりょう》たる大都会の夜景の中を、全人類を代表して自然の暴力に抵抗しようとしている人のように、吹雪を真正面に受けて、新橋から須田町の方角へ向かって歩いてゆく一点の人影があった。自然は又自然で、小ざかしい人間の企図を思うまま弄殺《ろうさつ》してやろうと決心したかのように、時には、唸《うな》りをたてて疾風を送り、時にはけろり[#「けろり」に傍点]と静まって、まるで傍観しているような様子を示す。
 人間は、寒さにいじけ、風に圧せられてよろけかかっているように見える。此の世に希望を失った人生の落伍者が、あてどのない八つあたりの不平と自己嫌悪とに気を腐らして、人生の行路さながらの吹雪道を無目的に歩いているように見える。
 しかし、十時の夜勤をすまして駒込《こまごめ》の自宅へ徒歩で帰ろうとしている、浅野護謨会社事務員今村謹太郎ははたで思う程あわれな存在ではなかった。第一雪道を歩くのは経験のない人が想像する程寒いものではない。少しくらい靴の皮をとおして水気が足へしみこんだところで、摩擦の熱は、それを蒸発させるに十分である。歩行の速度を少しばかり速めさえすれば、運動が熱にかわって必要な程度に全身が温まってくる。むしろ雪道を歩くのは汗の出る仕事である。今村は、暗い空から無限に湧いては、軒灯の光の中を斜めに切って、ほてった顔にばらばらと降り注いでくる灰色の雪の冷たい感触をむしろ享楽していた。彼が、一見風に吹かれてよろけているように見えたのは、実は、一歩一歩大地を踏みしめる足の下から、温泉のように湧き上って来る幸福な思想のばねにはねかえされて躍《おど》っているのであった。
 実際今村はお伽噺《とぎばなし》の王子のように幸福であった。吹雪は、自然が彼の幸福にささげてくれる伴奏のように彼には思われた。人気のない天地の中に、ただ独り歩いている彼にとっては、空想は外部から邪魔されるおそれはない。ことに雪の夜の都会は空想の翼をほしいままにひろげるには此の上なく好都合な環境である。少年時代の思い出、未来に対するかずかずの希望、現在の生活の満足さ、果報さ――こうした思想の細片が、一つ一つ歓喜の詩となって、彼の頭の中で、最も非現実的な、お伽噺の中でのみ見られる幸福の讃歌を綴ってゆくのであった。
 わけても、今村のほしいままな空想をややもすれば独占しようとするのは、近い将来に彼等の家庭の一員に加えらるべき子供のことであった。彼はそれを男の児として考えて見る。丸々と肥った健康のシンボルのような嬰児はいつのまにか水兵服をつけた五つ六つの年頃にかわる。妻と二人で両方から手をひいて動物園へつれてゆく。何でもすきな玩具《おもちゃ》を買ってやる。やがて中学の制服を着た姿にかわる。学科も優等でなくちゃいかん。スポーツは野球がよいかな……次には女の児として想像して見る。洋服にしようか、和服が似合うかな。名前は何とつけよう? いや名前などは今から考えちゃいかん。その時のインスピレーションにまかせておかなくちゃ。顔は母に似て丸ぽちゃに相違ない。女学校はどこへ入れようかな。成長《おおき》くなったら音楽家にしようか、それとも画家がよいか知らん。画は日本画と西洋画とどちらがよいか知らんて。琴や生花を仕込んで純粋な日本娘風にしつけるのもわるくはないな……空想の泉は、空から湧いて来る雪と無限を競《あらそ》うて、それからそれへとはてしがない。

     三、奇禍

 読者諸君、私は、ここで、厳正な第三者として一言述べておきたいことがある。今村のような環境に生き、今村のような人生観をもっている人生の行路者は果して幸福であろうか? 私は即座に否と答えるに躊躇しないのである。何となれば、彼の頭の中にえがかれている人生と現実の人生との間にはあまりにも残酷な溝渠《こうきょ》が穿《うが》たれている。少くも今日の世の中では今村のような人間の存在そのものが甚だ不自然である。人間社会に行われている自然淘汰は、彼のような病的な存在を長く許しておく筈がないのである。今の社会に生きてゆくためには、もう少し悪ずれのしていることが絶対に必要である。今村のような人間は、人間社会を支配している機械の歯車の中へ不用意に飛びこんだ蝿のようなもので、それが圧《お》しつぶされてしまうのは自然でもあり、必然でもあるので、それを今更ら悲しんだり同情したりするのはもう遅過ぎるのである。これから私が語ろうとするエピソード、即ち彼が社会の歯車でおしつぶされた次第は、多少不自然のきらいがないでもないが、決して珍らしいことではなく、こういう人間に必らずふりかかって来る運命なのだ。もっと目立たない形で、人間の社会にざらに行われている平凡な現象の一つの要約《レジュメ》と言えば言える位なものに過ぎないのだ。蛇足のようであるがこれ
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