犠牲者
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)了《お》えていない

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六畳一|室《ま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けろり[#「けろり」に傍点]
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     一、小さな幸福

 中学の課程すらも満足に了《お》えていない今村謹太郎《いまむらきんたろう》にとっては、浅野護謨《あさのごむ》会社事務員月給七十五円という現在の職業は、十分満足なものであった。自分のような、何処といって取柄のない人間を、大金を出して雇ってくれている雇主《やといぬし》は世にも有り難い人であると、彼はいつも心から感謝していた。
 彼は、それだけの給料で、ささやかながらも、見かけだけは堅牢な家庭生活を築き上げていた。彼の郷里である山陰道の農村から、殆《ほと》んど富士山も見ないようにして、まっすぐに彼の家庭へとびこんで来た細君は、村の生活と、彼等二人の家庭生活とのほかには、世間のことは文字通り何も知らず、彼等の生活とちがった人生が、此の世の中にあり得るなどと考えたことすらもなかった。夫婦の生活というものは、月収七十五円の範囲内で営まるべきものと神代の昔からきまっているように想像していた。従って、現在の生活に満足している程度は、今村と同様若しくはそれ以上であり、今村が雇主に感謝していると同じように、彼女は、百姓娘の自分を人の羨《うらや》む東京へつれて来て養ってくれている今村に、心からの感謝を捧げていたのである。
 多くの下級事務員の生活がそうであるように、今村の生活には、一年じゅう何の変化もなかった。毎日時間をきめて、自宅と会社との間を往復すべく運命づけられた機械のような生活であった。しかし、彼は、それを当然であると考えていた。これは、自分の生れない前からきめられていたことで今更らどうにもしようがないのみならず、変化などがあってはそれこそ却って大変だと考えていた。このまま、月給七十五円の事務員として一生涯をおわっても、そんなことは一向彼には苦にならなかった。むしろそれをのぞんでいる位だった。それで結構一人前の生活をしてゆくことができるという驚くべき自信を彼はもっていた。物価が騰貴すれば騰貴しただけ生活費を切り詰めればよい。現在六畳と二畳とで十五円の家賃は、六畳一|室《ま》の室借《まがり》にすれば少なくも三円の室代《へやだい》を切りつめることができると彼はしじゅう、万一の場合の覚悟をきめていた。しかも此の自信を彼は現在の生活によって着々と実証していた。四年の間に積み立てられた貯金は、既に二百七十円なにがしという額に達していた。そして、この貯金は、毎月少なくとも十円位の割合で増加していたのである。
 この小さな財産の上に、今村の一切の希望は築きあげられていた。郊外のどこかに、六畳一室に三畳くらいの小ざっぱりした家を建てよう、月に一度位は女房とやがてできるであろう子供とをつれて洋食の一皿も食べに出かけよう、年に一度くらいは芝居も見物したい――安月給取の頭の中を毎日のように往来するこうした小さな慾望が、今村には現実の慾望とはならずに、遠い未来の希望として、描かれたり消されたりしていたのである。ことに家を建てるという考えは、幾度び彼の頭の中で咀嚼《そしゃく》され、反芻《はんすう》されたことであろう。彼の脳裡《のうり》には、もう空想の自宅が、完全に設計され、建造され、建具や家具や装飾をそなえつけられて、主人を迎え入れていたのである。此の自宅は、自分の所有なのだ。家賃を払う必要がないのだ。彼には何だか勿体《もったい》ないような気がするのであった。おまけに、この幸福な思想の特徴は、何度繰り返して頭に浮んできても決して、平凡な無刺戟なものになってしまうようなことはなくて、いつも、いきいきとした新鮮な姿で現われ、それが浮んで来る度びに、彼の幸福の雰囲気を濃厚にする不思議な力をもっていたことである。

     二、吹雪の夜の大都会

 夜の十時過ぎ。平生《ふだん》ならば、銀座通りはまだ宵のうちだ。全日本の流行の粋《すい》をそぐった男女の群が、まるで自分の邸内でも歩いているように、屈託のない足どりでプロムナードを楽しんでいる時刻だ。
 けれども、その日は朝から雪で、午過ぎからは風が加わって吹き降りにかわっていた。九時頃には二寸も粉雪がつもって電車もとまってしまった。車道も歩道も街路樹も家々の屋根もただ見る一面の雪におおわれている。時々、自動車が、猪のように疾走して去る外には殆んど生物の住んでいることを暗示させるものは何もない。まるで、大自然の威力の前に、脆弱《ぜいじゃく》な人間の文明がおどおどして、蝸牛《かたつむり》のように頭をかたく殻の中へかくして萎縮しているよ
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