《そうかん》が釘を打ちこむような声で言った。「貴様は今村謹太郎に相違ないか?」第二の男が幾らか慄《ふる》えを帯びた声で言った。三人目の男は衣嚢《ポケット》から警察章を出して見せて「吾々は警視庁の刑事だ。すぐに同行するんだ」と言いながら、大事そうにまた警察章を衣嚢へしまった。
 今村は、全身が蒟蒻《こんにゃく》のようにふるえるのを制《おさ》えることも、かくすこともできなかった。第一の打撃でよい加減気を腐らしていた折柄、咄嗟《とっさ》に降って湧いた二度目の更に一層グロテスクな出来事をどう判断してよいか、彼には考えるひまも力もなかった。ただ、理由なしに怖ろしかった。そして、誰も他の人は見ていないに拘《かかわ》らず、彼は、まるで白昼大通りで丸裸にされて侮辱を受けているような侮辱を感じた。細君が家の中から出て来ないのを不審がるよりも前に、この不面目な場面を細君に見られたら大変だという警戒の念が先に起った。
「家内はこのことを知っておるでしょうか?」
 と彼はがたがた慄えながらきいた。
「だまってゆけ」
 と一人の刑事が、無慈悲そのもののような調子で言った。今村の両手はいつのまにか捕縄《とりなわ》でかたく縛られていた。
 彼は命令された通り、だまってついてゆくよりほかはなかった。自分の意志を全く失ってしまって、他人の命令に絶対服従する気持には一種の快感が伴うものだ。今村が、恐れとか怒りとかいう感じをその時さらに感じなかったのは極めて自然であると私は思う。貪慾な所有者は家宝の花瓶に少しくらい疵《きず》のついた時には、くやしくて、残念で、二晩や三晩は眠れないかも知れない。けれども、此の花瓶が、超人の手によって、百尺の高さから、花崗岩《かこうがん》の庭石の上へ投げつけられ、物の見事に文字通り、粉微塵《こなみじん》に破壊されたらどうだろう。どんなに貪慾な人間でも、その時は、一時、残念とかくやしいとかいう生やさしい心境を超脱してしまうに相違ない。
 彼は、さも愉快そうにげらげらと笑い出すかも知れない。無限の両端は一致するという真理には例外はないのだ。
 この刹那の今村の心理状態を学者が分析するなら、命よりも大切にしていた家宝の花瓶を、一思いに粉砕された刹那の所有者の心理状態との間に、少なからぬ共通点を見出したことであろう。
 彼は、刑事がするがままに、外套と上着と短衣《チョッキ》と洋袴《ズボン》との衣嚢をのこらず裏返して紙屑一つあまさず所持品という所持品を悉く没収された。飼主に追われて小舎の中へ入る豚のような恰好と心理とをもって、彼は自動車に乗せられた。
 その途たんに、彼は一瞬間自意識にかえった。名状しがたい絶望感が、風のように彼の全身を通り過ぎた。彼の唇は彼の意志とは独立に歪《ゆが》み、頬のあたりの筋肉は剛直した。
「もう駄目だ!」
 卑怯な家畜のような声が思わず彼の歯間を洩《も》れて出た。三人の刑事は一斉にじろりと彼の方を見た。

     五、恐怖

 四人の人間の塊りをのせた自動車は、石ころでも乗せたように無感覚な相貌をして、雪の中を疾走していった。一行が警視庁へ着いた時は、もう時計は二時をよほど廻っていた。
 彼はもう一度厳重な身体検査を受け、外套と帽子と上衣とは参考品として没収され、一言も言わずに、まるでメリケン粉の袋か何かのように荒々しく留置所へ入れられた。
 今村は何よりも空腹と寒さとを感じた。そして、こんな場合に、こんなところで空腹を感じる自分の動物的本能に嫌悪を感じた。しばらくすると係りの警官が毛布を二三枚もって来た。外には二名の警官が立ち番をしているらしかった。彼は本能的に毛布を足でもちあげ、歯でくわえて短衣の上にまきつけた。その毛布は、これまで幾度び、ありとあらゆる忌わしい犯人の身体にまきつき、その体臭と汗とに浸みこまれていることであろう。彼は何とも言いようのない屈辱を感じたが、それでも毛布をすてはしなかった。それどころか、その毛布が自分にふさわしい着物のようにさえ思われた。
 彼にはどう考えても今夜の出来事は合点がゆかなかった。ことによると、あの最初の一撃を受けた瞬間に、頭の調子が狂ってしまって、今は夢を見ているのじゃなかろうか? それよりも、最初の打撃そのものが既に夢の中の出来事で、自分は現在、家で蒲団にくるまって、女房と枕を並べて安らかに眠っているのかも知れない。
 廊下を往来する守衛の靴の音が、此の上なく非音楽的なリズムをつくって、乾燥した音波を鼓膜に送って来る。その音には、日本帝国官憲の威力がこもっているようで、鼓膜を打つたびにひやりとさせる。それを聞いていると、或いは自分が無意識の裡に何か悪いことをして、それを自分で気がつかずにいるのではあるまいかという考えが湧いて来る。そして、時とすると、それが動かしがたい、
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