って来た。「瀬川秀太郎《せがわひでたろう》」という活字は、すぐに私の心を自然に対する親しみから、人間に対する親しみへ引き戻した。私は三日の間、食事の時に宿の女中とお座なりの言葉を交すだけだったので、人間の肉声に渇していたのである。ことに、学校を出てから、この附近に小さい病院を開業している開業医でありながら、どこか神秘思想家の面影をそなえた瀬川は、此の際私の渇を医するには最も好ましい話相手であった。今度の事件が起ってからも彼とは一二度あっているのだ。私はチャブ台の前に端座して、来客を待っていた。
「浅野という男が死んだね」
 瀬川は一わたり久闊《きゅうかつ》の挨拶がすんでから、急に話頭を転換して言った。私には浅野という男が誰のことかとみには思い出せなかったので、
「はあ……」
 とわかったような、わからぬような生返事をしていた。瀬川は衣嚢から一枚の東京新聞をとりだして、「静岡版」のところをひろげて一つの記事を指し示した。「浅野社長自殺す」というみだし[#「みだし」に傍点]で、浅野護謨会社社長が、ひきつづく事業の失敗のために会社を解散し、その後修善寺の新井旅館に隠棲していたが、昨夜、家人の寝しずまってから猫いらず自殺をとげたこと、原因は、物質的打撃のために精神に異状を来たしたものらしく、遺書の如きものは見当らぬというようなことが書いてあった。
「これは君が弁論を引き受けている小使殺しのあった会社の社長じゃないか?」
 瀬川は私が記事を読み了《おわ》ったころを見すまして言った。
 私の記憶は、新聞を見た刹那からすでに蘇《よみがえ》って読んでいるうちにも、私の脳細胞は活溌に活動しつづけていたのである。しかもあの事件の公判はもう旬日のうちに迫っていたので、職業意識は極度に緊張して、私の推理と想像の機能を最大限にはたらかせた。記事を読んでしまった時には、私はすっかり謎が解けたような気がした。
「わかった!」
 と私は読み了ると同時に叫んだ。
「こいつが犯人だ!」
「浅野がかい?」瀬川は別段驚きもしないでききかえした。「どうしてだい?」
 私は、咄嗟のうちに頭の中に描かれたプロットを追いながら、話し出した。もっとも、いよいよ話し出して見ると、すっかりわかったように思われたのが、所々曖昧な部分がのこっていることに気がついたが。
「君は、あの晩今村が帰り途で何者かに後ろから殴りつけられたことを僕が話したのをおぼえているだろう。あれは、今村の帰宅の時間をおくらせるために浅野が暴漢を雇って殴らせたのだよ。そうしとけば今村のアリバイがたたぬからね。それに証拠は何ものこらない。頭の傷のことを言い出せば、却って小使と格闘した時に受けたのだろうと逆に攻めつけられて藪蛇になるからね。うまくたくんだものだ。こうしておいて浅野はその間に自分で小使を殴り殺して兇器をかくしてしまい、今村が事務所におき忘れていた手袋を屍体のそばにのこしておいて、ちょうどその晩今村が夜勤の番にあたっていたのを幸い、彼に嫌疑を向けようとして、何くわぬ顔で警視庁へ電話をかけたのだ。殺害の原因はしらべて見ねばわからぬが、多分、何か浅野が不正なことをしていたのを小使が知っていたために、生かしておいては危険だとでも思ったのだろう。まあそんなところに相違ない。こういうぼろ会社の社長は不正なことをせぬ方が却って不思議な位だからね。こん度の自殺は、良心の苛責《かしゃく》の結果にきまっている。すべてが関聯しているじゃないか。すっかり辻褄《つじつま》があうじゃないか?」
 私は吾ながら、自分の推理が比較的整っていたので得意を満面に浮べて相手を見た。すると、今まで神秘的な眼つきをして空間の一点を見つめていた瀬川は、おもむろに口を開いて語り出した。
「矢っ張り君もそう思ったかね。僕も新聞を見たときには君と同じように考えても見たが、どうもそれはこじつけだよ。君のような法律家には、人間界に起る凡ての現象が法律の範疇の中で動いているように見えるかも知れない。凡ての出来事が関聯し、関聯した出来事はすべて人間の意志に操られて計画的に進行しているように見えるかも知れない。けれども、僕に言わせると、あの事件は、何もかもが無関係で偶然だよ。それを勝手に人間が結びつけて、犯人のないところに犯人を製造しているのだ。君たちは、人間が少しかわった死にかたをすれば、必らず殺した人間がなければならぬと考える。死人のそばにあるものは、紙屑一つでも、その犯罪に関係のある証拠品のように考える。犯罪と同時刻に起った出来事は、何でも、その犯罪と因果関係をもっているように思い込む。仮りにいたずら者があって、屍体のそばに百人ばかりの名刺と十種ばかりの兇器とをばらまいておいたら、君たちは一たいどれを『有力な証拠品』と見なすつもりだい。君は今になって今村
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