が帰途で受けた傷を何か人間の行為ときまっているような口吻《くちぶり》を洩らすが、あれは人間の行為じゃないよ。あれは、三十尺位の高さから、直径二寸あまりの枯木の枝が、ちょうど今村がその下を通りかかる時に墜落したのだ。珍らしい出来事だがあり得ないことではないよ。少なくも、その位の枯木が今村が奇禍にあった場所に落ちていたことは、僕が此の眼で実際に見たんだから確実だ。それに、ちょうど脳天へ傷を受ける可能性はこれ以外に想像できないからね。それから、ちょうど折悪しくその時刻にもう一つの出来事が京橋の事務所で起ったのだ。それは、小使のおやじが、火の用心のために部屋を見廻っている時に心臓麻痺で倒れた拍子に床でこっぴどく頭を打ったのだ。臨検の医師は、頭部を兇器で打たれて、そのために心臓麻痺を起して倒れたのだと言っているようだが、これは時間にすれば殆んど同時であるが、原因結果の順序は逆になっている。兇器がいくら探しても見つからぬのは兇器がないからなのだ。そこへ用事があって事務所へ来た社長が小使の屍体を発見して警視庁へしらせ、臨検の警官が、今村が運悪くその場へ落していった手袋を発見して、彼を有力な嫌疑者とにらんだのだ。それから、今度の浅野の自殺は、新聞にある通り、事業の失敗による精神過労の結果発狂したためだ。どの事件もみんな別々に、互に無関係に起っているのだ。ただ君たちのような法律家は、これを偶然の暗合としてすませないで、是非とも『真相を解決』しようとするんだ。とまあ僕は解釈するね」 
     ×    ×     ×
 正直に白状するが、私には今だにこの事件の真相はわからない。私の解釈にも多少理由があるように思う。瀬川の解釈にも動かし難い真理があるように思う。しかし、私の解釈の証拠は浅野が死んだ以上|堙滅《いんめつ》してしまっている。瀬川の解釈は自然を証人にたてるよりほかには法廷の問題にはならぬ。して見ると周囲の事情は依然として哀れな今村に最も不利である。私には依然としてこの事件の弁論に対する自信はない。考えて見ると弁論そのものがいやになって来る。人間には人間をさばく力がないのだ。わかりきった過誤をも私は現在の法律では証明することができないのだ。
 こんなことを考えて来ると私は弁護士という職業を廃業するより外に道がないような気もする。しかし、どんな職業だって同じだという気もする。それで、私は、相変らず、こののぞみのない弁論をして見る気でいるのだ。今村をたすけるためではなくただ自分の職業として。
 私が瀬川と二人で、人間の過誤の犠牲となった今村のことなどは忘れて、よい気持になってその晩酒をのんで別れた。瀬川もそんなことは少しも気にしていないような様子で陽気に唄をうたったりした。海は、何事にも無関心で、千古のままの波を岸に寄せているらしかった。
[#地付き](一九二六年五月)



底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年2月20日初版1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1926(大正15)年5月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2009年3月24日作成
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