的な価値を帯びてくるのである。その他にも彼は予審廷に於て、いろいろへまなことを申したてている。そして、一旦口外したことは嘘であろうが何であろうが、彼は断じて取り消そうとしない。前言を翻すのは男子の恥辱だと心得ている。男子の一言金鉄の如しというヒロイズムだけを彼は頑固に信じている。そんなわけで、彼の答弁は却って矛盾だらけになっているのである。これを要するに、彼はあまりに善良過ぎるために罪を背負って、その重荷を放すことができないという結論になって来る。
 それというのも我が国の、いやひとり我が国のみならず、全世界の裁判制度なるものが、形式万能主義で、今村のような世にも珍らしい被告の心理に彩られた複雑な事件をさばくようにはできていないからである。
 最後に此の事件には他に一人も嫌疑者がない。犯罪があって犯人がないというようなことは警察として忍びがたいところだ。それに世間が、新聞が承知しない。そこで、警察は犯人がなければ犯人を製造してもかまわぬ位の意気込みで仕事にあたっている。それも事情やむを得ないのであろう。況《いわ》んやこの事件では、被告に充分嫌疑をかける表面的理由があるのだから、他に有力な嫌疑者でも出ない限り、彼が証拠不充分で釈放されるのぞみはないと言ってよい。ただ裁判所が一番困っているのは兇器が見つからぬことだ。被告も兇器のことは知らぬ存ぜぬでおしとおしていることだ。
 然らば万一、被告が法律上無罪になったとしたら彼は救われるかというと、一たんかくも無惨に破壊された人間の生活というものは容易に繕われるものではない。被告はこれまで、呪いとか、憎みとか、不平とかいうものを知らなんだ。そのためにこそ彼は七十五円の月収で未来の幸福を空想し、この空想が現在の生活を幸福にしていたのである。ところが、今度の事件によって、彼の頭には、不正に対する呪いと憎悪とが深刻にきざまれたに相違ない。それに、浅野合資会社は、この事件のあったすぐあとで破産している。仮に彼が釈放されても生活の本拠が既になくなっているのだ。人間が多過ぎて困る不景気な今の世の中に、殺人犯の嫌疑を受けた人間を雇い入れるような好奇心をもっている資本家は一人だってありはしない。世間の人の眼には、いくら無罪にきまっても、一たん収監された人間には、どうしても黒い影がつきまとって見えるものだ。アナトール・フランスのかいたクランクビュという青物屋と同じ待遇を彼等は世間から受けなければならんのだ。最後に、本人はまだ知らずにいるが、細君はあの事件に証人としてよばれるやら何やらで胆をつぶして月足らずで流産し、彼の空想の楽しい糧《かて》であった愛子は、闇から闇に葬られている。細君は国元へひきとられて、もう二度と東京の土をふまぬようにと親戚からさとされている。これを今村が知ったらどうだろう。彼の空想の幸福は、要するに、一寸した間違いのために、精神的にも、物質的にも、家庭的にも、すっかり廃墟となってしまって、それを再建するよすがはないのである。私は、むしろ、彼を永久に未決監において、せめても一|縷《る》の空想を楽しみながら世を去らせてやりたいと思う位だ。

     九、補遺――真犯人は誰か?

 私はこの物語を以上で終るつもりでいた。ところが今村の公判もまぢかに迫った最近ちょっとした事件が起ったので、それを補遺として書き添えておくのを適当だと思った。何故かなら、たとえ正確にはわからなかったにしても、此の事件の真犯人について私が何の意見ものべなかったのは一部の読者を失望させただろうからである。
 数日前、私は少し調べ物をする必要があったので、訪客を避けて、沼津の千本浜の一旅宿へひっこんでいた。三日の間、私は新聞も読まずに此の事件とは関係のない或る重大な事件の調査に没頭していた。
 四日目の朝であった。昨日まで吹きすさんでいた西風がけろりと凪《や》んで、珍らしく海が凪《な》いでいた。静浦の沖には、無数の漁船が日光を享楽している水鳥の群のように点々と浮んでいる。おだやかな波は、小石だらけの汀《なぎさ》へぽしゃりぽしゃりと静かな音をたてて打ち寄せている。一体波の音というものは、宇宙間に於ける最も美妙な音楽であると私は言いたい。それは何千億という細かい小音の集りである。あたかも、大洋の水を構成している無限数の分子の一つ一つの衝撃が、それぞれ独得のひびきを発し、人間の耳では到底ききわけることのできない千差万別の音階をもって自然の一大交響楽を奏しているかのようである。
 私は、硝子障子《ガラスしょうじ》を一ぱいに開け部屋じゅうへ日光を直射させながら、二階の廊下へ足を投げ出して、はじめて波の音をきく人のように珍らしそうに、この自然の音楽にきき入りながら、うっとりとして寝ころんでいた。
 その時に宿の女中が一枚の名刺をも
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