課長はそれを決定的な有罪の証明であると判断して、別段返事の督促もしないで次の訊問に移った。
「この手袋は君のだろう?」
 彼はデスクの上にのせてある一つの駱駝《らくだ》の手袋をさし示して言った。
「そうです」
 と先刻から不思議そうにそれを見ていた今村は承認した。
「この手袋の片一方はどうしたかおぼえているか?」
「途中で落したと見えてありませんでした」
「どこで落したかおぼえがあるか?」
「ありません」
「君は小使を撲殺した時に、不注意にも現場に落してきたのだ。被害者のそばに落ちていたということだぞ。臨検の警官からの電話で、君の手袋の片一方が発見されたことが明瞭になっているのだ」
 今村は、頭から尻へ、串でつきとおされたような気がした。彼を犯人だと信じきった課長は、勝ち誇った勝軍の将が、敵の降将に降伏条件を指定する時のような、確信に満ちた態度で言った。
「どうじゃ、おぼえがないとは言えないだろう?」
「おぼえはありません」
 と今村は低声《こごえ》で呻《うな》るように云った。そして、こんな返事は却って、おぼえのある証拠であるように思えて、自分で自分のへまさ加減がいやになった。
「おぼえがありません」というような答えは真犯人の常套語であるということを、従来の経験にてらして知りぬいている課長は、今村の返事などは歯牙にもかけずに訊問をすすめた。
「おぼえのない人間が、どうしてつかまった時に『家内はこのことを知っておりますか』なんて云う必要があるのか? 自動車に乗せられるときは『もう駄目だ』なんて独り言をいう必要があるのか? いずれ重大な事件だから、すぐに係りの検事から審問がある筈だが、なまじっか偽《いつわり》を申し立てぬがいいぞ。隠してはためにならぬぞ」
 課長は肥った身体を満足そうにゆすぶりながら、言いたいだけのことを言ってしまうと、先刻から不動の姿勢をとっていた護衛の警官にあご[#「あご」に傍点]の先で合図した。
 今村は、咽喉に栓が詰って、一言もものがいえなかった。しょんぼりとして、警官にひきたてられてゆく彼の姿を見ると誰の眼にも、すっかり恐れ入ってひきさがってゆく罪人とかわりはなかった。
 実際今村自身にさえ、自分が罪人であるとしか思われなかったのである。絶体絶命の不可抗力に、「お前が犯人だ」と暗示され、その暗示は、人間わざではどうすることもできないような気がした。ニューヨークの摩天楼のてっぺんから、真逆様に墜落するときに感ずるでもあろうような、何とも施しようのない、ただ落ちるがままにまかせておくよりほかに仕方のないような宿命を感じた。
 昨夜のことがきれぎれに彼の頭をかすめて通りすぎる。細君の顔と刑事課長の顔とが消えたり浮んだりする。その度びに彼は脳髄の中へ氷の棒をつきとおされるような思いがした。
 それから間もなく臨検の一行が帰り、証人として浅野社長も召喚されて、予審廷が開かれたことは言うまでもないが、その内容は今のと大同小異だからここで発表する必要はなかろう。ただ翌日の新聞の夕刊(朝刊の記事には間にあわなかったので)には「浅野護謨会社小使惨殺さる」という記事の標題《みだし》として「加害者は同社の事務員」と記され、今村がすっかり罪状を自白してただちに未決監へ収監された記事がのっていたことだけを言っておけばよい。

     八、むしろ永久に未決監に

 今村は今も未決監にいる。彼が無罪であることは、彼からきれぎれに聞いた話を綜合して、今読者に語っている、彼の係りの弁護士なる私はかたく信じている。けれども彼が法律上無罪になるかという問題になると、私には必らずしもそれは保証できない。弁護士として甚だ不謹慎な放言をするようであるが、実際自分は自分の弁論の効果に余り自信がもてないのである。第一彼は、あの晩に家へ帰る途中で、奇禍にあったことを一度も裁判官に言っておらぬし今になってそんなことを言い出せば、却って疑を深くするような立場にある。然るに、犯行は十一時頃と鑑定されているからこれを言わなければどうしても現場不在証明が立たぬ。第二に彼は、その時に受けた頭部の打撲傷を判事に発見されたときに、それになるべく自然らしい説明を与えようとして、途中で転んで頭を打ったと申し立てている。ところが、これは極めて不自然な説明となっている。何故かなら、あの打撲傷はかっきり脳天に受けているのであるから、真逆様に転んだのでなければ、あんなところに傷のできる気遣いはない。然るに歩いている人間が真逆様に転ぶことはあり得ない。第三に、事務所に彼が忘れて来た手袋がちょうど被害者のそばに落ちていたということは、あまりにもフェータルな暗合である。勿論手袋だけなら単なる一つの薄弱な情況証拠としかならぬが、他の証拠と重なり合って来ると、これは、容易ならぬ、殆んど決定
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