、かいつまんで話した。電話をきいているうちに、課長の顔には次第に職業的緊張があらわれ、「すぐ行きます」と打ってかわっておとなしい言葉で電話を切ったのであった。そして、彼は大急ぎで服を着かえて、自動車をとばしたのである。
「君が今村君かね?」
と課長は彼独得の、おとなしい、それでいて威厳のある語調《ことば》で口をきった。この語調は彼が官庁の飯を食い出してから二十余年の間に習得されたものであった。序でに鳥渡《ちょっと》言っておくが、彼は、柔よく剛を制すという戦術《タクチック》を殆んど盲目的に信じていて、嫌疑者や犯人が手剛《てごわ》い人間であればある程ますますおとなしい調子で話しかけるのが習慣であった。今の口の切り出しかたで見ると、彼が今村を余程油断のならぬ敵手と値踏みしていることは確実といってよいのである。
課長の戦術は、初心な今村に対しては殆んど催眠術のような効を奏した。第一印象に於て、彼はすっかり課長の柔和な人品に打たれたのである。何か自分に犯行があったら、すっかりこのお方に白状してしまいたいような気持ちになった。この人を喜ばすためになら何かちょっとした罪くらいなら犯してもよいと思った位であった。ところが、あいにく自分が青天白日の身で何も白状すべきことがないので、彼は、課長に対して申しわけのないような気の毒なような気がするのであった。そこで、せめて課長の訊問に対して、できるだけ丁寧に答えるのが、自分の義務でもあり、愉快な人道的な行為でもあると考えた。
「そうです」
と彼は心から恐縮しきって答えた。
「いずれ詳しいことは判事から審問がある筈だが、君は、何故拘引されたかわかっているだろうね?」
彼は忽ち返事に窮した。実際彼にはさっぱり拘引された理由がわからなかったのである。しかし「わかりません」と鸚鵡《おうむ》返しに言ってのければ、余計に相手の疑を増すことにもなり、それに第一無礼にあたるような気もした。少し妙ではあるが、ことによると帰り途で最初の一撃にあったことと関連して、何かの人違いで自分が拘引されたのかも知れぬとふっと気がついたが、さればと言って「わかっています」と言いきるのは相手を馬鹿にしたようで如何にも図々しすぎる。
「はっきりとはわかりませんが……」ともじもじしながら彼は答えた。
「はっきりわからなくともおぼえはあるんだね、よしよし」と課長は独り合点して大きくうなずいた。
「君は昨夜、浅野護謨会社の小使を殺したろう?」
獲物に向って発射した弾丸《たま》の手ごたえを見定める時の、熟練した猟夫のような眼で、課長は穴のあく程相手の顔を見た。今の不意討ち的訊問の手ごたえを見てとろうとしたのである。
ところが、彼の期待とは打ってかわった妙な反応があらわれた。今村はぽかんとして、無感動な調子で「何ですか?」と訊きかえした。実際よくききとれなかった様子である。課長は、化学反応の実験がうまくゆかなかった時の理科の教師のように小首をかしげた。しかし彼はすぐに気をとりなおした。
「浅野護謨会社の小使を殺したのは君だろうというのだ」
課長は、相手を容易ならぬ強敵と見てとって、できるだけ冷静に言った。いくら隠しだてしたって、こちらでは何もかもわかっているということを犯人に強く印象させる必要のある時に彼が用いる態度である。
今村は、はじめて、自分が容易ならぬ嫌疑を受けているらしいことを自覚して、総身《そうみ》に水を浴びたように胴慄いした。そしてこれまでの自分の返事が、みんな自分の実際の気持ちを裏切って相手に不利に解釈されていることに気がついて底知れぬ不安に打たれた。課長に対する敬愛の心は、忽ち憎悪の念にかわった。唇は歪み、舌はひきつってとみに返事もできなかったので、彼はだまっていた。ところが彼がだまっていたのは、却って彼の図太さの証拠であると課長は判断してこういう場合にいつも用いる、息をもつかせぬ「急追法」をとった。
七、証拠
「昨夜君は何時に社を出た?」
「かっきり十時に出ました」
「それから真直に家へ帰ったか?」
「はあ真直に帰りました」
「そうか、君は算術は出来るね? 社を出たのがかっきり十時、それで君が家の門口まで帰ったのは今朝の一時二十分過ぎだ。君は帰り途に三時間と二十分費やしているわけだよ。その頃は電車はとまっていたそうだが、京橋から君の家までは、いくら足のおそい人でも、徒歩で二時間あれば沢山だ。ことに昨夜のような雪の晩には、誰でもそうのろのろ歩いているものはない。若し君が真直に家に帰ったのなら、十時に社を出たというのは偽りだろう」
今村は帰途で奇禍にあったことを余っ程話そうかと思った。けれども、それは何も証拠のないことである。却って不自然なつくり話だと思われる恐れがある。彼は返事に窮してまただまった。
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