説が人間について研究した結果は、物理学、化学等のやうな精確さをもつてはゐない。生理学ほどの精確さをすらもつてゐない。しかし、こゝでは研究の結果を論ずるのではなくて研究の方法を論じてゐるのである。実験小説が、他の先進科学に比して幼稚であるのは、それが生れてから間もないために過ぎない。即ち実験小説家が人間を研究する方法に欠陥があるからでなくて、研究の日が浅いからに他ならぬ。クロオド・ベルナアルが「実験科学者は自然の予審判事である」と言つたに対し、ゾラは「吾々小説家は人間の予審判事である」と言つてゐる。両者の研究方法は全く同じなのである。
この方法に対して次の如く批難するものがある。「自然主義の小説家は専ら人間の写真を撮影しようとしてゐるのだ! 然るにこの写真は到底精密なものではあり得ない。芸術作品をつくるためには、どうしても事実を整理する必要がある!』
ところが、ゾラによれば、実験的方法を小説に導入することによつて、かやうな他愛もない批難は根拠を失つてしまうのである。実験小説家は成るほどありのまゝの事実から出発する。けれどもたゞ事実を観察するだけではなくて、その事実の機構《メカニズム》を示すために、さま/″\な現象を起して見る。そしてこの現象を吟味するのである。それはもう写真ではなくて、そこには吾々の創意が加はつてゐる。吾々は小説に実験的方法を適用することによりて、自然の外に出ることなくして、自然を変更するのである。
私たちが、或る事実を観察すると、そこに一つの意想《イデー》が生れて来る。そして、この意想が真であるか否かを疑問とするやうになる。クロオド・ベルナアルによれば、懐疑者こそ真の科学者なのである。何となれば、懐疑者は、自分自身について、自分の解釈については疑ひをもつけれども、一つの絶対的原理、即ち、現象の決定性《デテルミニスム》をかたく信じてゐる。これを信じないでは、疑問も起りはしないのである。而して、この意想、及びそれに対する懐疑、並びにそれをたしかめるための実験のしかた等は、全く個人的なものであり、そこには芸術家の創意の余地が十分に存するのである。芸術家は決して写真師ではないのである。
三
クロオド・ベルナアルが、生命現象の研究に実験的方法を適用する必要を主張すると、これに反対の生気論者《ヴイタリスト》は、クロオド・ベルナアルの
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