なってしまった。が仕方がない、川を伝って下りて行った。何だか擂鉢《すりばち》の底でもめぐっているような思いがする。斯様な所を通って行って果して温泉なぞに出られるだろうか、と疑いたくなる。ちょっと立止って耳を澄すと、川の音と、うすくかかって来た霧の中をキュッ、キュッと鳴いて飛んでいる蝙蝠とがあるばかりだ。空を仰いでも、もう虹の色はいつしか消えてしまって、薄ぼんやりしているばかりだ。後から来る老爺を待とうかと言い出したが、まあ関わず行けというので進んで行った。
 川が折れ曲ったかと思うと、山陰に家が黒く見え出して来た。燈火がちらちらする。湯の香もする。人の声もする。ほっと息をついた。足も自ら急がれた。
 湯煙りが上り、靄が白くゆらゆら立ちのぼる中に百六十軒の人家が並んでいる、賑かに歌をうたう声が聞えている。実際思い掛けない所を見付けたような気がした。その中の大きな家を一軒見付けて泊った。湯は炭酸泉だ、外湯で、大きな共同の浴場が出来ていて、皆下駄を穿《は》いてその湯に這入りに行く。

 翌朝目がさめて戸外へ出て見ると、雲が晴れ上って、西の方に当って連峰の上、槍ヶ岳の尖頂は雲を突裂いて立ってい
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