がら、脊負子を脊負って、大声で話し掛けながらやって来る。
 入日は峰の雲に隠れてしまった。径は登り尽くして平らになった。樅の木が立枯れして、白く骸骨のようになって立っている。もう一度振返って見た。飛騨にはもう雲が落ちて、今日通って来た辺などの見当は少しもつかない。この山を向うへ下りると、またいつこの飛騨の地などへ来れるか分らんと思うと、懐かしいような気がして暫く立っていて見た。
 下り坂の端に立った。ぱっと一道の虹が深谷の中から天に向って沖している。深い深い何丈とも知れない谿だ、ざあざあと水音らしい響が聞えて来る。谿底はもう薄暗い。谷を隔てて黒い岩質の山が微かな夕の光を反射させている。
「ああごしてえ[#「ごしてえ」に傍点]、まあ先へ行っしゃろ、平湯はこの谷の底だで。」老夫は岩角へ腰を卸《おろ》した。
 私たちは草鞋の紐をしめ直して、殆んど垂直とも思われる礫だらけの谷の道を馳け下りた。一度足を動かし出したらば、止めようがない。腹をでくでくさせながら、息もつかずに走り下りた。
 藪道をくぐり抜けて渓流の岸へ下りた。ただ一面の短い草の原、今まで来た道は何処へやら、さっぱり判然《わか》らなく
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