て、また山の中へ向うのである。四方を見渡しても小さな山が一面眼前を埋めていて、眺望がさらに開けない、せせこましい感じをするばかりである。
 一里半ばかり行くと坊方という山村がある。其処《そこ》から蒲田の温泉と上高地の温泉へ行く道とがあるが、それへは行かず、旗鉾を通って平湯へ行こうというのであった。五里行くとその旗鉾という村へ出た。山が漸次に深くなり、山道を荷を負うて通う牛が其処此処《そこここ》に群をなしている。道の両側の坂地をならして小さな麻畑がいくつも出来ている。此処までの道は、山も高くなく、ただありふれた山地の景色に過ぎない。
 旗鉾からは山は次第に深くなり、樅、栂、檜《ひのき》などの大木が茂って、路は泥深く、牛の足跡に水が溜っていて、羽虫が一面泥の上を飛んで、人が行くとぱっと舞い上る。道は細くうねうね林の下、谿の上を伝って上る。さあっ、さあっと水の音か、樹上を渡る風の音か、ちょっと判断のつかない響がして、鳥の声が妙に澄んで来る、道を行く者も自ずと黙ってしまう。
 雨は止んで、雲が次第にうすくなって来た。まだ行く先き三里の山路だ。
 熊笹が次第に深く茂って来た。少し先きまで降ってい
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