く、耳が不思議に大きい。「そう、五里位はあろうかな。」と吠えるような、木の洞の中から出て来るような声でいう。「五里?」驚いた。前の湯では四里と聞かされたのが、二里も来たかと思うのになお五里だという。林務官は言い捨てたままずんずん行ってしまう。後からは筒袖を着て、背板というのを背負った男が附いて行く、すぐ草の中へその後姿は没してしまった。――山や谷はこの時一層音高く鳴り出した。「妙だね。」と何人か言い出した。
「何だか変だね。」
「ほんとの人間かしら。」同じような感じは皆の胸を走った。皆は振返って今行った人たちの後を見ずには得《い》られなかった。
 遂に雨となった。
 深山の雨、幾千年となく斧の入った事のない深林の雨だ。始めは繋り合う木の葉に遮《さえ》ぎられているが、次第次第に烈しく落ちて、枝がぬれ、幹がぬれ、草がぬれ、自分らの纏《まと》っている糸径《いとだて》がぬれ、果ては衣服にも沁《し》み透《とお》る。仰いでも望んでも霧と雨、果ても知れず深い千古の谿にふり灑《そそ》ぐ雨の音、黙々として谿を巻き林を覆うて浮動している霧の姿、圧すべき人類もない深山の中で、人などは度外に置いて、霧と雨とが
前へ 次へ
全36ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉江 喬松 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング