日は暮れて来る、一行四人はびしょ濡れに濡れて遅く田の原の宿へ着いた。
田の原の宿を出たのは朝の四時、強力《ごうりき》が燈《とも》して行く松明《たいまつ》の火で、偃松《はいまつ》の中を登って行く。霧が濛々《もうもう》として襲って来る。風が出て来た、なかなかに烈《はげ》しい。加えて寒さも厳しい、夜がほのぼのと明るく松火はいつか消えてしまった。天が明るくなると遠く見渡される。紫色の空、その鮮かさはかつて見た事がない。桔梗《ききょう》色に光を帯びて輝く美しさ、その下に群巒《ぐんらん》の頂が浮んで見える、――しかしこの美観も瞬時に消えて、雲一帯、忽《たちま》ちに覆うてしまう。風はなかなかに烈しい。偃松の上を雷鳥が風に吹かれて飛んで行く。
頂上の小屋に達したのは五時、小屋の炉に当って身を温め、剣が峰へ登って見た。御嶽の最高峰、岩角にすがって下の方地獄谷から吹き上げて来る烈風に面して立つと、殆んど呼吸する事も出来ない。風と共に雲が奔騰《ほんとう》して来て、忽ちに岩角を包み小屋を包み、今まで見えていた一の池、二の池、三の池の姿も一切隠れてしまう。この雲の徂徠、雲の巻舒《けんじょ》、到底下界では見られない現象である。が、刹那《せつな》に雲が開けると、乗鞍、槍ヶ岳一帯、この山からつづく峻嶺高峰、日本アルプスの連嶺の頂きが、今目さめたというようなように劃然と浮んで見える。この峰づたいに乗鞍の頂へも出る事が出来ると聞いた、風に吹かれ雲に包まれてこの絶頂無人の境を渉るのである。私は是非行って見たいと思った。
しかし私らの今取ろうというのは、この峻嶺跋渉ではない、烈しい白雲の中を衝《つ》いていわゆる裏山を飛騨《ひだ》の国へ下りようというのである。
飛騨路というのは峰の小屋から路を右手にとり、二の池の岸を繞《めぐ》って磊々《らいらい》たる小石の中を下って行くので、途《みち》というべき途はない。少し霧が深く、小雨でも降ろうものなら何《いず》れが路とも分らなくなるのである。峰の小屋の熊のような主は「危えぜ、克《よ》く気を付けて行かっせ、何でも右へ右へと、小石の積んだのを目当てに行きせえすりぁ大丈夫だ。」といったが、福島から付いて来た案内の強力も、二の池から山を少し下って裏山になりかかる所で分れて木曾の方へ戻ってしまった。
御嶽の裏山! 年々飛騨路から多少の登山者はあるとは聞いたが、その他には通い手のない途だ。剣が峰を左手に仰いで池の岸から賽《さい》の河原という所を通る。一面の石原、大小千個ともなき焼石の原である。それでも幾年かの間、登山者の草鞋《わらじ》の当る所だけがすれて、少し隔《へだた》って見ると微《かす》かに白く一筋の道のようにはなっているが、近くその上へ行って見ると何処ともはっきりとは判らない、ただ所々に小石を積んで道しるべにしてあるのが、せめてもの目当である。
賽の河原は中々長い、雲の影が明るく暗くその上を照らして過ぐる。如何にも心もとない前途である。河原を上りつめると、一面急峻な偃松帯の中へはいる。径《みち》は一縷《いちる》、危い崖の上を繞《めぐ》って深い谿を瞰下《みおろ》しながら行くのである。ちょっとの注意も緩《ゆる》められない径だ、谿の中には一木も一草もない。ただ赤ちゃけた焼石が磊々としているばかり、水音も聞えない。渓の周囲には太古以来人間の足跡を印した事のない山が続々として群立している。ただ荒れている山だ。それでも次第に雲が晴れ渡って青空が晴朗に輝き暖気を増して来た。
一里ほども下ったかと思う頃、偃松の幾谿を越えて遠くの方に薄い煙が見える。「もう飛騨の国だろうか。」と思うと何となく不思議な国へ来たような気がする。確かに飛騨の国に異《ちが》いない。
偃松帯を出抜けたかと思うと、径は一層急になって熊笹の中に入る。身長よりも高い熊笹をがさがさと分けて下るが、足とまりは一段一段と段を刻《きざ》んである。その中には雨水が溜っていて踏むたびに飛び散る。両手で笹を掻き分けるので、三尺離れるともう先行者の姿はその中に没して見えなくなる。立ち留っているとがさがさと音ばかりしている。はっと明るくなったと思って顔を上げて見ると、熊笹が低くなって日影が満面に照らしている。そして熊笹の所々に頭を顕《あらわ》して黄色い石楠花が咲いている。
熊笹の中を馳《か》け下ると、栂《つが》樅《もみ》などの林に這入《はい》る。いかに巨《おお》きな樹でも一抱《ひとかか》えぐらいに過ぎないが、幹という幹には苔が蒸して、枝には兎糸《とし》が垂れ下っている。中には白く骨の如くになって立ち枯れしたものもある。あるいは枯れて倒れて草の中に縦横に横《よこた》わっているものもある。その倒れた樹の上を飛び越え踏み越えて下るのだが、その急峻といったら全く垂直線の板上を滑り落ちるようだ。
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