を出抜けると道は既に木曾川の岸を伝って走っている。明日は御嶽へ登るべき身の足の疲労を気遣って藪原から馬車に乗る。馬車は川岸を廻《めぐ》り巡《めぐ》って走るので、川を隔てて緑葉の重々と繁り合っているのを仰ぎ見る心地好さ。
「面白いぞや木曾路の旅は、笠に木の葉が散りかかる。」
 これが秋の旅であるならば、夕風に散る木葉の雨の中を、菅笠で辿って行く寂しい味を占め得るのであるが、今は青葉が重り合って、谿々峰々|尽《ことごと》く青葉の吐息に薫《かお》っている。
 馬車屋は元気の好い若者で、自分が何匹も馬を持っている事をば、連りに自慢して話して聞かせた。
「何《な》に一呼吸でさあ、五里ばかりの道、この間四時間でやった事がありまさあ。」
と馬の強いのを誇っていた。――午後の日の光は緑葉に輝き、松蝉の声が喧しく聞えている。暫《しばら》くすると白い雲が行くての峰に湧き上った。日影が隠れて、青葉がざわつき出す、川を隔てて前の谿が急に暗くなる、と雷鳴が聞え出して、川の瀬音がこれに響くかと思うと、大粒の雨が灰のような砂塵の上を叩いて落ち出した。馬は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き出す、馭者《ぎょしゃ》は絆を引きしめる。谿が鳴り山が響いて風が一過したかと思うと、大雨が襲って来た。止まるべき家もないので、馬車は雨を衝《つ》いてひた走りに走る。晴天つづきの後とて雨具の用意がない。屋根から洩れ、正面から吹き込む。日除《ひよ》けの幕を一面に引廻わして防いでも、吹き込む雨にびしょ濡れに濡れる。
 不意に馬車が止ったと思うと、何か連りに話し合う声が聞える。――出抜《だしぬ》けに引廻した幕を開《あ》けて顔を突き出した男がある。見ると八字の髯《ひげ》が第一に目に付く、頭髪が伸びて、太い眉毛の下には大きな眼が凄《すご》く光っている。紺絣《こんがすり》の洗洒《あらいさら》したのが太い筋張った腕にからまっている。ぎょろぎょろと馬車の中の一人一人に目を止めて見たが、別に何と言うでもなく、そのままぐっと幕を引いて下りてしまった。日除けの隙から覗《のぞ》いて見ると、紺絣の下に雪袴といってこの辺の農夫が着けている紺木綿の袴ようなものを穿《は》いて傘をさしている。そして馭者の方へ向ってちょっと手を挙げた。すると馬車はまた動き出した。
「何だろう。」車中の者は話し出した。
「オイ、馬車屋さん、今のは何だえ、出し抜けに、え。」と幕の端をちょっと引いて吹きつける雨に顔を背《そむ》けながら訊《き》くと、馭者はちょっと振り返って、
「何に探偵でさあ。」
「探偵? 何の探偵だえ。」
「何に、つい二、三日前にね、山の中で林務官を殺して逃げた奴があるでね、其奴《そいつ》が何でも坊様の風《ふう》をして逃げたって事だで、其奴を探すんずらい。」
 馭者は度々此様な事に逢うのか、別に気にも留めていないようだ。雨はまた一《ひと》しきり烈しく降る。その降り灑《そそ》ぐ音、峰から流れ落ちて来る水の音、雷鳴はまだ止まない。車中の者は身を縮めて晴れるのを待つばかり。話しすら存分には出来ない。宮越、原野、上田などは雨中に過ぎた。福島の町に入ろうとする手前で雨は晴れた。夕日が遠い山の頂を射て藍青の峰が微《ほのか》に匂う。福島は川を挟み山を負うた心地よい町である。林務官殺しの話は此処にも聞えていた。福島に一泊。

 福島から御嶽の頂上まで十里の間、その半ばは王滝川の渓流に沿うて溯《さかのぼ》るのである。この山中の路は登り下りの坂で、松木林、雑木林、あるいは碧湍《へきたん》の岸を伝い、あるいは深淵を瞰下《みおろ》して行く。五人十人あるいは二十人三十人、白衣道者の往来するのに逢わないことはない。桑原から沢渡へ越す所で一回王滝川を渡る。橋は一方少し坂になっている処から橡《とち》、欅《けやき》、※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》などの巨樹の繁茂している急峻な山の中腹に向って架《か》けられてあるのだ。橋の下は水流は静かであるが、如何《いか》にも深そうだ。この橋を渡ると深林の中の径《みち》となる。小暗く立ち繁った巨樹の根が道を横切っていて躓《つまず》きがちである。林を出抜けると草原、崩越を越えて山に沿い暫《しばら》く王滝川を遠く脚下に見て行く。山また山が重って、その間を川は眠ったようにうねっている。何だか遠い世の姿でも見るような気がする。山を下りてまた一回王滝川を渡って王滝の村となる。御嶽の第一合目である。
 王滝から田の原(六合目)まで登る間は、一合目ごとに小屋が出来ていて宿泊も出来る。松林が尽き、雑木林が次第になくなって、※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》類の旧い苔蒸した林となる。雨雲が覆い被さって来て、三合目あたりから遂に雨となった。林の中はただ狭霧と雨とのみ、雨中を鳥の声がする、
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