木曾御嶽の両面
吉江喬松

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)烈《はげ》しい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)旧|中仙道《なかせんどう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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 八月の初旬、信濃の高原は雲の変幻の最も烈《はげ》しい時である。桔梗が原を囲《かこ》む山々の影も時あって暗く、時あって明るく、その緑の色も次第に黒みを帯びて来た。入日の雲が真紅に紫にあるいは黄色に燃えて燦爛《さんらん》の美を尽すのも今だ。この原の奇観の一つに算《かぞ》えられている大旋風の起るのもこの頃である。
 曇り日の空に雲は重く、見渡すかぎり緑の色は常よりも濃く、風はやや湿っているが路草に置く露が重いので、まず降る恐れはなかろう。塩尻の停車場から原の南隅の一角を掠《かす》めて木曾路へ這入《はい》って行こうとするのである。道は旧|中仙道《なかせんどう》の大路で極めて平坦である。左手には山が迫り、山の麓には小村が点在している。右手は遠く松林、草原が断続して、天気の好い日ならばその果てに松本の市街が小さく見え、安曇野を隔てて遠く、有明山、屏風岳、槍ヶ岳、常念ヶ岳、蝶ヶ岳、鍋冠山などが攅簇《さんそう》して、山の深さの幾許あるか知れない様を見せているのだが、これらの山影も今日は半ば以上雲に包まれて見えない。ただ空の一角、私たちの行く手に当って青空が僅に微《ほの》めいているだけである。
 この頃の中仙道の路上は到る処白衣の道者の鈴声を聞かない事はない。金剛杖を突き、呪文を唱えながら行く御嶽道者らで、その鈴声に伴われて行けば知らず知らずに木曾路に這入ってしまうのである。
 桔梗が原の尽頭第一の駅路は洗馬《せば》である。犀川《さいがわ》の源流の一つである奈良井川は駅の後方に近く流れ、山がやや迫って山駅の趣が先ず目に這入る。駅は坂路ですこぶる荒廃の姿を示している。洗馬を通り抜けると、牧野、本山、日出塩等の諸駅の荒廃の姿はいずれも同じであるが、戸々|養蚕《ようさん》は忙しく途上断えず幾組かの桑摘《くわつみ》帰りの男女に逢う。この養蚕はこれら山駅の唯一の生命である。
 離落たる山駅の間を走って中仙道は次第に山深く這入って行く。雲が晴れて日が次第に照らし出す。山風はいかにも涼しいが、前途の遠いのを思うとすこぶる心もとない。
 桜沢、若神子《わかみこ》、贄川《にえがわ》、平沢の諸駅、名前だけは克《よ》く耳にしていた。桜沢以西は既に西筑摩郡で、いわば前木曾ともいうべき処である。これらの村々から松本の町へ出て来る学生がある。家から栗の実を送って来たといっては友人を集めてその御馳走をするのであった。その後では必ず「木曾のなあ――」という例の歌を唄って聞かせた。今では女の学生も出ている。同行者の一人の太田君は自分の教え子だと言ってその子の家へ立寄った。家の中は一ぱいに蚕棚が立てられていて、人のいる場所もない位。おとずれると、太い大黒柱の黒く光っている陰から老人の頭が見えて、その子は今桑摘みに行っていないがとにかく是非《ぜひ》休んで行けといって、連《しき》りに一行の者を引止めて茶をすすめながら、木曾街道の駅々の頽廃《たいはい》して行く姿をば慨歎《がいたん》して、何とか振興策はあるまいかといっていた。
 奈良井の駅は川と鳥居嶺との間に圧せられたような、如何《いか》にも荒涼たる駅である。此処《ここ》から嶺へ登るので、この嶺は木曾川と犀川との分水嶺になっている。
 嶺を越えるとその中腹に藪原の宿がある。あらら木細工、花漬などを売る家が軒を並べている。「木曾の椽うき世の人の土産かな。」うすい木片を剥《は》いで、一度使えば捨ててしまうような木の小皿が出来ている。その一枚一枚に様々な風雅な文句が摺《す》り付てある。
 この藪原の駅からは多く大工が出稼ぎに出る。年中|大方《おおかた》の日は嶺を越えて他へ出ているので、主人のいない家では戸ごと大抵馬を飼うのである。木曾馬といって小形な方で、峻坂の登り降りに最も適している。多くて十四、五頭、少くとも四、五頭は飼わない家はない。その飼養は皆女の仕事で、日中は家から遠く離れた草原へ来て馬を放し、自分らは草を刈っているが、夕方は放した馬を集めて帰って来るのである。十二、三頭並んで崖の上を廻って来る。最先きの馬の背には飼主が乗り、鞍の上で草鞋《わらじ》などを作っていると、親馬の後を追いながら子馬は立ち止って道草を食ったり、また嘶《いなな》いたりしながら走って来る。と親馬もまた立ち止って長く嘶き互に嘶き合って一つ一つ夕靄《ゆうもや》の中に消えて行く。
 藪原の宿
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