落下しないために絶えず足を動かしていずにはいられない。止《と》め度《ど》なく飛び降りつづけるのである。ちょっと油断すれば先行者の姿は草か倒木の下に隠れて見失うのである。立ち止って「オーイ」と呼ぶと、遥か下の方で「オーイ」と答えるが、ただ声だけで、その声も妙に物凄く響く。樹林の中の空気も人の声を伝えた事は稀にしかないのだ。聞く者の耳も妙に変っている。この「オーイ」「オーイ」の応答が杜絶《とだ》えると、自分の心臓の鼓動が高く響くだけが気になる寂莫《せきばく》である。
 遠く下の方で谿流の響が耳にはいるが、降れども降れども中々達しない。おりてもおりても殆んど同じ垂直の径である。膝頭が痛くなり、眼も眩《くら》むように覚える。かような径を果して登る人があるだろうか、下り尽したら何処へ達するのだろう。水の音は何時までも同じ度合に聞えている。
 二、三里も下ったかと思うと、ふと渓流の音が近くに聞えて、路が右に一廻転する。深い草が開けて丸木を渡した谿川へ出た。もう人里も遠くなかろうと思って、倒木へ腰掛けて休んでいると、遅れた同行の一人が漸く追い付いた、先きへ行った二人の影は見えない。
「ねえ君、先きの連中は道を間違えたのじゃなかろうか。」
「なーに大丈夫だ、間違いようもないから。」
「そうだね。」見合せた二人の顔は妙に蒼白かった。言葉も不思議に澄んでひびくし、話し合う気にもなれない。何だか、渓流のざわざわいうのが次第に高くなるようで、如何しても長く停止していられない所だ、また廻りくねって林中の径を走り出した。
 今度は前に比べると一層高く水声が聞えて来る。もう濁川の湯へ近くなったのではあるまいか。水声は聞えても中々林は尽きない。路の急な事も依然として急だ。一時間位も走ったかと思うと、川の縁に沿うて藁屋根が一つ目に這入った。ああ川は益田川の上流だ、家は濁川の湯だ、いよいよ飛騨の国へ来たのである。
 急いで川の岸を伝って行くと、危い橋を渡って家の前へ出た。前も後も急峻な樹木の山、この山に挟まれ渓流に向った一軒家、木材だけは巌丈《がんじょう》なものを用いて、屋根も厚く葺《ふ》いてある。
「やあ、遅かったね。」と出し抜けに声がする。
 驚いて見ると、左手の小屋の中からひょっくら頭を出した者がある。見ると先行者の一人である。
「早く来たまえ、好い心持だ。」近寄って見ると、かなり広い湯槽にいっぱい、上から竹樋で引いた湯が、ざわざわざわざわと溢《あふ》れて流れている、アルカリー泉のようだ。
 草鞋《わらじ》を脱《ぬ》ぎ、衣服をぬぎ捨てて急いで湯へ飛び込む。柔《やわらか》な温《ぬく》よかな心持、浴槽の縁《ふち》へ頭を載《の》せ足を投げ出していると、今朝出立して来た田原の宿、頂上の白雲、急峻な裏山などは夢のようになってしまう。
 湯から出て、浴槽から直《す》ぐ荒蓙《あらござ》を敷いた二階へ昇る。戸もなく、荒板の儘《まま》だ。四人は蓙の上へ裸形のまま休んでいると、上り口の方から、髪を無雑作に束ねた女の顔が出て、
「何か食べさっしゃるかね。」という、その歯は黒く鉄漿《かね》で染めている。
「何か喰べるものがあるかね、川魚でも。」
「川魚なんかありましね、御飯と御汁とならありますし。」
「じゃ、それでも好い、急いで持って来ておくれ。」持って来たのは御飯といっても砂だらけ、御汁といっても煤臭《すすくさ》いようで、おまけに塩湯でも飲むようだ。山菜とかいって野生の菜を汁の味にしたものである。その飯はざらざらしていて、如何に空腹でも二杯とは食べられない。旅宿のある所まで何里あるかというと、
「そうだね、まあ西洞まで行かっしゃりゃ、宿屋はありましず、四里だね。」
「四里じゃ、一呼吸だ、路はどうだね。」「やはり今降りて御座《ござ》らっしたような……。」
「急かね。」「だが、いくらか違いましず。」
 四里の峻坂、木の根を踏み越えて下るのか。一呼吸だと意張っては見たものの実は内々閉口していた。それに空はどうやら曇って来た。これで雨にでも合おうものなら愍然《あわれ》なものだ。二階から下りようと段々の処へ行くと、戸を立て切って上に小さな木札をかけて「林務官御室」としてある。かような家でも特別室があるのかと不思議な思がした。
 入口の処へは今、里から食料を運ぶ男が着いたと見えて四、五人集ってわいわいいっていた。ぎょろっと片眼の飛び出した大男が腰をかがめて、かます[#「かます」に傍点]に這入っている青物など何かと調べていた。先刻の主婦もいる、六十ほどの老婆もいる。若者が二、三人いる。見ると、入口の柱に寄りかかって帯をだらりと垂らした十八、九の女が一人、娘とも思われないのが、蒼黒い土のような顔色をしている。疲れたような眼を挙げたが、またすぐ視線を地へ落してしまう。
「何だろう、え君。」一人が
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